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第六十四部 山道では、通すものから決める話 ① 消える朝靄と、変わる足取り

 アルムロイト辺境伯府を出たのは、朝靄が谷の底から消え始める頃だった。


 夜の間に冷えた石畳は、まだ薄く湿っている。川沿いの道では、河川港へ向かう荷車と、山側へ登る驢馬の列が、互いに進路を譲り合いながら動き始めていた。


 昨日までは、足元へ置く杖の先を意識しながら歩いていた。


 今日は、自分の歩幅だけを考えればいい。


 レオンは、辺境伯府の門を出たところで、ほんの少しだけ歩調を速めた。


 脇腹の奥には、まだ薄い引きつれが残っている。脚も、身体の向きを急に変えれば、傷を負う前よりわずかに遅れて付いてくる。


 それでも、歩ける。


 誰かから許された距離の中だけではなく、自分の足で、行きたい場所へ向かえる。


 たった数日の不自由だったはずなのに、その感覚は、思っていた以上に心地よかった。


「速い」


 隣を歩いていたカミラが言った。


「普通に歩いている」


「あんたが、普通と言い張る時は、少し疑った方がいい」


「女医から、歩いてよいと言われた」


「走ってよいとは言われていない」


「走っていない」


「いまのところはな」


 カミラは、灰色の目を細めた。


 外套の下では、昨日アーデルハイトから借りた濃い灰色の革手袋を着けている。


 白鷹門で傷んだ古い手袋よりも、右手の指を動かしやすいらしい。袖口の留め具を直す動作にも、目立ったぎこちなさはなかった。


「その手袋は、悪くなさそうだな」


 レオンが言うと、カミラは右手を一度だけ開き、再び握った。


「使いやすい」


「似合っている」


「昨日も聞いた」


「昨日より、よく見える」


「何が違う」


「朝の光」


「適当なことを言うな」


「本当だ。山の光は、女を美しく見せるらしい」


 カミラは、何も答えなかった。


 ただし、歩調が少しだけ速くなる。


「待て。さっき、速いと言ったのは、おまえだろう」


「あんたが遅い」


「急に基準を変えるな」


 少し前を歩いていたリヴィアが振り向き、楽しそうに笑った。


 その隣では、アーデルハイトが、今日の視察に必要な記録を確認している。


 辺境伯家の後継者候補として、乱れのない服装を崩してはいない。けれど、今日は執務室へ籠もる日ではないため、長い外套の下には山道を歩きやすい衣服を選び、足元も丈夫な革靴で固めていた。


 リヴィアは、シーロ船団で使う濃紺の外套を羽織り、腰へ細い縄を巻いている。船の上では、濡れた甲板でも両手を空けて動けるようにしているらしい。


 四人の少し後ろには、辺境伯府の護衛兵が二人付き、さらに、山道を管理する役人と、驢馬を引く荷運び人が歩いていた。


 山側へ運ぶ荷の中には、昨日、河川倉庫で詰め替えられた薬箱もある。


 小箱の側面へ、油を引いた木札が結び付けられている。


 赤い印。


 行き先。


 外箱を開けた場所。


 詰め替えた時刻。


 担当者。


 小箱へ分けた数。


 文字の横には、途中で箱を開けたかどうかを示す細い色紐も付いていた。


 昨日、考えたばかりの仕組みである。


 完成したわけではない。


 今日、初めて山道を登り、使う者の手へ渡る。


 不便があれば、直す。


 レオンは、驢馬の歩調に合わせて小さく揺れる札を眺めた。


「昨日までは、帳面の数字だった」


 何気なく言うと、アーデルハイトが顔を上げた。


「薬箱ですか」


「ああ。倉庫で見た時も、物ではあった。だが、こうして山へ向かうところを見ると、少し違って見える」


 薬を待っている者がいる。


 塩を待っている者がいる。


 箱の数が合うかどうかだけではない。


 荷が、必要な場所へ届くかどうか。


 届いたと、あとから確かめられるかどうか。


 どちらも必要だった。


「中継所まで、どのくらい掛かる」


 カミラが尋ねた。


「急がなければ、一刻半ほどです」


 アーデルハイトが答える。


「途中から道幅が狭くなります。荷車は使えません。人と驢馬だけです」


「鉱山町へ向かう道とは、途中で分かれるのか」


「はい。最初の中継所までは同じです。そこから先で、鉱山道、山腹の村へ向かう道、東側の峠へ近づく道へ分かれます」


 アルムロイト辺境伯領は、地図の上では広大である。


 だが、その八割近くを山岳地帯が占める。


 道を一本引けば、自由に人と荷を動かせる土地ではない。


 斜面を削る。


 石を積む。


 雪解け水を逃がす。


 崩れた箇所を直す。


 荷車が入れなければ、驢馬へ載せ替える。


 驢馬も通せなければ、人が背負う。


 使える土地が少ないからこそ、一本道の使い方が、暮らしの形そのものを決めていた。


 道は、川沿いの緩やかな坂を外れ、針葉樹の間へ入り込んでいった。


 右手には山肌が迫り、左手には谷が開けている。


 ところどころで、石積みの擁壁が道を支えていた。昨夜までの雨を受け、岩肌の隙間から細い水が流れ出し、路面へ浅い筋を作っている。


 山側から下りてきた荷運び人とすれ違うたび、どちらかが待避所へ入った。


 木材。


 薬草。


 炭。


 山羊乳を入れた桶。


 小さな籠へ詰めた茸。


 どれも、一度に大量へ運べるものではない。


 その代わり、途切れさせずに流す。


 少しずつでも、毎日。


 しばらく歩くと、道の山側へ石造りの小さな建物が現れた。


 最初の山腹中継所である。


 谷側の壁は低く、山側の壁は岩肌へ半ば埋め込まれている。建物の前には、驢馬へ水を飲ませるための槽と、荷を一時的に置く木台があり、その横には、雨を避けるための深い庇が張り出していた。


 驢馬を引いていた荷運び人が、薬箱を木台へ下ろす。


 中継所の管理人らしい男が、すぐに札を確かめた。


「輪を大きくしたんですね」


 男は、革手袋を着けたまま、紐の先へ指を掛けた。


「これなら外せます」


「結び目は?」


 アーデルハイトが尋ねる。


「問題ありません。ただ、雨が強い日は、色紐が濡れて木札へ張り付くかもしれません」


「刻み目も残した方がよさそうだな」


 カミラが言った。


「色だけではなく、指で触れて分かるようにする」


「試します」


 アーデルハイトは、すぐに帳面へ書き込んだ。


 昨日決めた仕組みを、今日の午後には直す。


 正しさを守るためではない。


 使うためだ。


 レオンが、少しだけ感心していると、中継所の奥から、慌ただしい足音が聞こえた。


 若い男が一人、息を切らしながら走ってくる。


 泥の跳ねた長靴。


 濡れた外套。


 片手には、山道で使う短い杖を握っていた。


「上の折返しで、土が動きました」


 男は、中継所の管理人へ言った。


「村から下りてきた驢馬が、一頭、路肩へ足を取られています。荷を外そうとしていますが、谷側へ傾いていて、近づけません」


 アーデルハイトの表情が変わった。


「人は?」


「荷運び人が二人います。一人が手綱を持っています。怪我はありません。ただ、後ろにも荷が詰まり始めています」


「案内してください」


 返答は、早かった。


 山道を管理する役人と護衛兵が、すぐに前へ出る。


 レオンも歩調を速めた。


 隣で、カミラが横目を向ける。


「走るな」


「走っていない」


「速い」


「急ぐ理由がある」


「転べば、助ける人間が増える」


 言葉が、胸へ入った。


 以前ならば、それでも前へ出たかもしれない。


 自分が一番早い。


 自分がやればいい。


 傷が開くかどうかは、あとで考える。


 そうして、周囲へ余計な負担を増やす。


 レオンは、ほんの少しだけ歩幅を狭めた。


「分かった」


 素直に答えると、カミラが、一瞬だけ意外そうな顔をする。


「何だ」


「いや」


「人が成長したように見るな」


「成長したのか?」


「少なくとも、努力はしている」


「では、見ておく」


 低い声だった。


 けれど、口元には、ほんの少しだけ柔らかなものが残っていた。



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