第六十三部 道は、広ければよいわけではない話 ⑤ 外れた包帯と、山へ続く道
地図室を出たあと、アーデルハイトは、山側へ向かうために必要な外套と手袋を確かめると言い、リヴィアと共に物資庫へ向かった。
カミラも、そのあとへ続こうとする。
しかし、リヴィアが、包帯の外れた右手を見て足を止めた。
「カミラさん。その手袋は、白鷹門で傷んだものですか」
カミラは、自分の腰へ下げていた革手袋を見た。
右手側には、刃で裂けた跡が残り、縫い合わせた部分も、まだ完全には馴染んでいない。
「使えないわけではない」
「使えるかどうかではなく、明日の山道で使いやすいかどうかを聞いているの」
リヴィアの尋ね方は、柔らかかった。
けれど、曖昧な返事で済ませるつもりはないらしい。
「少し、指を動かしにくい」
カミラは、しばらく考えたあとで答えた。
「では、予備を見ましょう」
「客人が、そこまで借りる必要はない」
「客人だからではありません。明日の視察へ同行する方へ、必要な道具を渡すだけです」
アーデルハイトが言った。
カミラは、すぐには頷かなかった。
誰かから物を与えられることにも、助けを借りることにも、まだ慣れていないのだろう。
必要なものは、自分で用意する。
不足すれば、我慢する。
長い間、それが当たり前だった。
「視察用の備品です」
アーデルハイトは、もう一度言った。
「明日、返していただかなくても構いません。今後も領内を歩くのであれば、使ってください」
カミラは、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「今後も?」
「父上は、一度で終わらせるつもりではないと思います」
「私も、そう思うわ」
リヴィアが笑う。
「カミラさんは、役に立ちすぎますから」
カミラは、何かを言い返そうとした。
けれど、言葉がすぐには出なかったらしい。
ほんの少しだけ視線を逸らし、最後に、小さく頷く。
「……借りる」
「どうぞ」
アーデルハイトの声が、少しだけ柔らかくなる。
三人は、並んで物資庫へ入っていった。
レオンも、当然のようにあとへ続こうとした。
戸口の手前で、カミラが振り返る。
「あんたは、どこへ行く」
「山道用の装備を確かめる」
「男物は、隣だ」
「こちらにも、参考になるものがあるかもしれない」
「ない」
「まだ見ていない」
「見るな」
戸が、目の前で閉じられた。
レオンは、しばらく立ち尽くした。
「不当な扱いだ」
「妥当だと思うぞ」
背後から、コンラートの声がした。
振り向くと、地図室から出てきたコンラートが、数枚の報告書を片手へ持ったまま立っている。
「辺境伯まで、そちら側か」
「最初から、そちら側だ」
「味方が少ない」
「増やしたければ、行動を改めろ」
「難しい注文だな」
レオンは、閉じられた戸をもう一度見た。
その向こうからは、リヴィアの声と、アーデルハイトの穏やかな返答が聞こえる。少し遅れて、カミラの低い声も混ざった。
何を話しているのかまでは分からない。
それでよかった。
カミラが、誰かと並んで歩く。
同じ荷札を見て、同じ道について考える。
食事を取り、明日の外套を選び、必要な手袋を借りる。
追手から逃げる旅の途中には、なかった時間である。
監察官としての能力を必要とされながら、それだけではないものも、少しずつ受け取っている。
レオンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「何を笑っている」
コンラートが尋ねる。
「いや」
「酒を飲めないことへ、ようやく諦めが付いたか」
「それと、これとは別だ」
「そうか」
コンラートは、それ以上は聞かなかった。
窓の外では、薬箱を背負った驢馬が、山側へ向かう道をゆっくりと登っている。
新しい記録札が、革紐へ結び付けられ、歩調に合わせて小さく揺れていた。
今日、誰かが使う。
使いにくければ、明日には直す。
明日、レオンたちは、その荷が向かう先を、自分の足で歩く。
傷は、まだ完全には消えていない。
脇腹には、薄い引きつれが残っている。
カミラの右手にも、傷跡がある。
酒も、まだ飲めない。
それでも、次の道へ進むには十分だった。
アルムロイトで過ごす時間は、傷が治るまで待つためだけの空白ではない。
知らなかった暮らしを見る。
知らなかった統治を学ぶ。
道を広げることも、あえて広げないことも、誰かの生活と国の形を選ぶことなのだと知る。
閉じられていた物資庫の戸が開いた。
最初に出てきたのは、アーデルハイトだった。
次に、リヴィア。
最後に、カミラが出てくる。
新しい革手袋を着けていた。
濃い灰色の革は、彼女が普段着ている上着とよく馴染み、指先まで無駄なく動かせるよう作られている。
「似合っている」
レオンが言った。
カミラは、右手を一度だけ握り、開いた。
「手袋へ言う言葉か?」
「カミラが着けているから、そう思った」
灰色の目が、わずかに細くなる。
殴られるかもしれないと思った。
だが、右手は飛んでこなかった。
「……明日の道で、役に立つならばいい」
それだけを答え、カミラは歩き出した。
耳の先が、ほんの少しだけ赤い。
レオンは、余計な言葉を足さなかった。
引き際は、覚えている。
少なくとも、今日は。
明日は、山の上へ続く道を歩く。
──第六十三部 了




