第六十三部 道は、広ければよいわけではない話 ④ 地図室の帳面と、続く学習
アルムロイト辺境伯府の地図室には、周辺諸国と領内各地を描いた複数の地図が並べられていた。
部屋の中央に置かれた大きな卓の上では、アルムロイトの山々、河川、港、峠、街道、鉱山、村、倉庫、宿駅が、細い線と記号で描き分けられている。
壁際の棚には、鉱石の見本、港ごとの交易記録、河川の水位、山側の倉庫に残された穀物と塩の量を記した帳面が並んでいた。
豪華な部屋ではない。
だが、この領地を生かすために必要なものが集められている。
窓辺では、コンラートが、三枚の報告書へ目を通していた。
深い緑色の上着。
印章指輪。
指先に残る、薄いインク染み。
四人が入室すると、コンラートは報告書から顔を上げ、最初にレオンの手元を見た。
「杖は」
「返した」
「歩けるか」
「ああ。ようやく、普通に動いてよいと言われた」
「酒は」
「まだ禁止された」
「そうか」
「そこは、少しくらい同情してもよいと思う」
「医師が決める」
返答は、昨日までと変わらなかった。
「医師の権限が強すぎないか」
「傷を開く客人より、医師を信用している」
「比較の仕方に悪意がある」
コンラートは、それ以上取り合わず、三枚の報告書を卓上へ置いた。
「王子殿」
「何だ」
「どの道から直す」
突然、問われた。
レオンは、報告書へ視線を落とした。
一枚目は、鉱山町から河川港へ鉱石を下ろす道についての報告だった。
昨夜までの雨で、石積みの一部が緩んでいる。荷車を止めるほどではないが、補修を後回しにすれば、次の雨で崩れる可能性がある。
二枚目は、山腹の小さな村へ続く道についての報告である。
人と驢馬が通れる程度の細い道へ、上側から土砂が流れ込んだ。村へ入る道は、ほかにもある。ただし、大きく迂回するため、薬と塩を運ぶには半日以上余計に掛かる。
三枚目は、東側の峠道についての報告だった。
カラドリン方面へ続く古い交易路であり、複数の商人から、道幅を広げてほしいという要望が届いている。荷車を増やせれば、交易量も増える。税も増える。
「直す人間は、足りているのか」
レオンが尋ねる。
「足りん」
コンラートは答えた。
「石工も、人足も、木材も有限だ。春先は、雪解け水で壊れる道が増える。すべてを同時には直せない」
「鉱山道を止めれば、鉱石を下ろせない」
「そうだ」
「山腹の村へ入る道が遅れれば、薬と塩が届きにくい」
「そうだ」
「峠を広げれば、交易が増える」
「おそらくは」
コンラートは、レオンの顔を見た。
「どれから直す」
以前の自分ならば、最も多くの荷が通る道を選んだかもしれない。
鉱石を下ろす。
税を得る。
その税で、別の道も直す。
単純であり、分かりやすい。
だが、橋、市場、倉庫を見たあとでは、すぐに答える気にはなれなかった。
「山腹の村に、薬と塩はどの程度残っている」
レオンは、アーデルハイトへ尋ねた。
「薬は、今日の便が届けば、急ぐものについては足ります。塩は、通常なら十日ほど。ただし、迂回路を使えば、人と驢馬は通せます」
「鉱山道は」
「補修を始めなければ、次の強い雨で止まる可能性があります。ただし、今日と明日に限れば、荷車は減らして通せます」
「峠を広げる期限は?」
「商人からの要望です。いますぐ広げなければ、生活が止まるわけではありません」
アーデルハイトは、報告書へ目を向けた。
「ただし、カラドリン側から来る荷は、ここ数年で増えています。遅らせ続けてよい問題ではありません」
「港へ下ろす鉱石は、いつ船へ載せる?」
リヴィアが尋ねた。
「次の大型船が出るまで、五日あります」
「なら、今日と明日に下ろす量を減らしても、すぐには困らないわ。荷役の順番は組み替えられる」
「村へ運ぶ薬と塩は、迂回路から先に送る」
カミラが言った。
「鉱山道は、崩れる前に応急処置を始める。峠の拡幅は、急いで決めない」
コンラートが、カミラへ顔を向けた。
「なぜだ、カミラ・パヴェル」
「広げればよいとは限らないからだ」
カミラは、地図の東側へ視線を落とした。
「荷車が通りやすくなれば、商人は喜ぶ。だが、兵も通りやすくなる」
コンラートの青灰色の目が、わずかに細くなった。
「王子殿は、どう思う」
レオンは、地図を見た。
アルムロイトは、広い。
オストマルク、イタリカ、ザクセルの領域を合わせても、なお届かないほどの土地を持つ。
ただし、その八割近くは山である。
人が安定して暮らせる土地は、海岸、河川、谷間、丘陵地へ限られている。
守るべきものが少ないのではない。
守るべき場所が、細い線へ集まっている。
「広い道は、便利だ」
レオンは言った。
「鉱石も、食料も、薬も運べる。人も早く動ける。だが、こちらから動けるということは、向こうからも動けるということだ」
「そうだ」
コンラートは答えた。
「カラドリン方面へ続く峠道を広げれば、交易量は増える。王国も、帝国も、我々が豊かになることだけを理由に止めはしない」
「だが、兵が通れる幅になれば、話は変わる」
「変わる」
コンラートは、卓上に置かれていた細い棒を手へ取り、地図の上へ置いた。
「道は、ただの道ではない」
棒の先が、東側の峠へ触れる。
「荷を運ぶ」
次に、鉱山町と河川港を結ぶ道へ移る。
「人を生かす」
山腹の村へ続く細い線へ移る。
「そして、軍を通す」
再び、峠道へ戻る。
「すべての道を広げれば、豊かになるわけではない。すべての道を狭くすれば、安全になるわけでもない」
「何を通し、何を通さないかを決める」
レオンが言う。
「そうだ」
「道を作ることも、止めることも、政治か」
「ようやく、入口へ立ったな」
コンラートは、褒めたのかどうか分かりにくい言葉を返した。
「まだ、入口なのか」
「橋、市場、倉庫を見ただけで、国を理解したつもりか」
「少しくらいは、進んだと思いたい」
「少しは進んだ」
「褒められた?」
「調子へ乗るな」
レオンは、わずかに肩を落とした。
アーデルハイトが、口元をほんの少しだけ緩める。
コンラートは、地図の上へ三枚の報告書を並べ直した。
「山腹の村へ続く道は、迂回路を使え。薬と塩を先に送る。鉱山道は、今日から応急処置を始める。峠の拡幅は、保留する」
「保留?」
レオンが尋ねる。
「決めないのですか」
「決めるために、見る」
コンラートは、地図の東側ではなく、山腹の村と鉱山道の間にある中継所へ棒を置いた。
「明日、最初の山腹中継所まで行け。村へ送る荷が、どのように分けられ、どの道を通るか。鉱山道の応急処置が、何を止め、何を通すか。地図の線ではなく、自分の目で見ろ」
「峠は見なくてよいのか」
「一度に全部を見るな」
コンラートは、短く答えた。
「最初に、暮らしを見ろ。交易量を増やす話も、軍を通す話も、そのあとだ」
木の棒が、卓上へ置かれる。
「道の向こうには、人がいる」
昨日、薬箱を見ながら考えたことと、同じだった。
帳面の数字だけではない。
木札の印だけでもない。
箱の向こうには、薬を待つ子どもがいる。
道の向こうには、塩を待つ村がある。
「アーデルハイト」
コンラートが、娘へ顔を向けた。
「案内しろ」
「承知しました」
「リヴィア殿は」
「私も同行します」
リヴィアが答えた。
「シーロ便の薬箱が、実際にどのような状態で届くのか、見ておきたいです。札の改良も、山側で使う方へ直接聞いた方がよいでしょう」
コンラートは、次にカミラへ視線を移した。
「カミラ・パヴェル」
「行く」
返事は早かった。
「医師へ聞け」
カミラの眉が、わずかに寄る。
「通常の生活へ戻ってよいと言われた」
「山道を一日歩いてよいとは、言われていないだろう」
「最初の中継所までならば――」
「医師へ聞け」
コンラートは、取り合わなかった。
カミラが、口を閉じる。
レオンは、ほんの少しだけ笑った。
「監察官殿。医師の指示へ従うことも、長く働くために必要らしい」
「あんたは、酒を禁じられたばかりだろう」
「いまは、カミラの話をしている」
「都合がいい」
リヴィアが、笑いを堪えながらカミラへ声を掛けた。
「医務室へ、一緒に行きましょうか」
「一人で行ける」
「そうではなく、無理を言わないように」
「無理は言わない」
「本当に?」
カミラは、少しだけ黙った。
アーデルハイトが、帳面を胸元へ抱え直す。
「カミラさん。途中で戻る判断も含めて、明日の予定を組みます。最初から、すべてを見る必要はありません」
カミラは、アーデルハイトの顔を見た。
次に、リヴィアを見る。
最後に、包帯の外れた右手へ視線を落とした。
「……分かった」
短い返事だった。
不満が消えたわけではない。
それでも、拒まなかった。
誰かから心配されることへ、まだ慣れていない。
気遣われれば、自分は問題ないと答えたくなる。
助けを借りる前に、自分でできることを終わらせようとする。
けれど、アルムロイトへ来てから、ほんの少しだけ、受け取り方が変わり始めている。
レオンは、その変化を見た。
何も言わなかった。
言えば、余計なことを言うなと叱られる。
学習は、継続している。




