第六十三部 道は、広ければよいわけではない話 ② 動き出す辺境伯府と、医療だという答え
診療室を出ると、アルムロイト辺境伯府では、すでに一日の仕事が始まっていた。
領主の館でありながら、静かに威厳を示すための建物ではない。執務棟、文書庫、医務室、厩舎、石造倉庫が、川と街道の動きを止めないために必要な距離でつながっている。
門前では、前日の水位を記した札が掲示板へ掛けられ、役人が橋の通行状況を書き換えていた。厩舎の脇では、驢馬の背へ薬箱が固定され、その側面には、昨日決めたばかりの記録札が結び付けられている。
河川倉庫で外箱を開けた時刻。
担当者。
小箱へ分けた数。
行き先。
帳面へ転記したかどうか。
すべての荷へ一度に広げるのではなく、まずは急いで運ばれる薬だけで試す。
仕組みを作って終わりではない。
使えるかどうかを確かめ、使いにくければ直す。
昨日、コンラートから聞いた言葉が、レオンの中へ残っていた。
急いでいる者が、急いだままでも守れる仕組みを作ること。
厩舎へ続く通路の脇では、アーデルハイトが、河川倉庫の主任であるエルナから届いた報告へ目を通していた。
濃い栗色の髪は、いつものように首の後ろで簡潔に束ねられている。深緑色の上着の上へ薄い灰色の外套を羽織り、腰には帳面と、小さな革袋を下げていた。
その横には、リヴィアも立っている。
今日は船へ戻る予定がないらしく、濃紺の外套ではなく、少し軽い上着を着ていた。けれど、腰へ下げた革袋と、動きやすさを優先した靴は変わらない。
「おはようございます」
アーデルハイトが顔を上げた。
視線が、レオンの手元へ向かう。
「杖は?」
「返した」
レオンは答えた。
「今日からは、普通に歩いてよいそうだ」
「それは、よかった」
アーデルハイトは、素直に頷いた。
「ただし、完全に治ったわけではない」
隣に立つカミラが補足する。
「細かいところへ気付くな」
「あんたが、都合のよいところだけ話すからだ」
「歩けるようになったことが重要だと思う」
「酒も?」
カミラの問い掛けに、レオンは少しだけ黙った。
「酒については、医療の名を借りた不当な制限が継続している」
「禁止されたのね」
リヴィアが笑った。
「納得していない」
「医師が決めたのでしょう?」
「そうだが、異議を申し立てる権利くらいはあると思う」
「申し立ては通った?」
「香りを確かめることまで禁じられた」
「正しい判断だな」
カミラが迷いなく答える。
レオンは、味方がいないことを理解した。
「記録札は、どうだった」
カミラが尋ねると、アーデルハイトは、手にしていた報告へ視線を落とした。
「今朝、最初の六箱を山側へ出しました。河川倉庫で外箱を開け、小箱へ分けたものです。いまのところ、大きな問題はありません。ただ、革手袋を着けたままでは、札を留めた紐を外しにくいという意見が出ています」
「山側では、簡単に手袋を外せないこともある」
カミラが言った。
「寒さだけではない。薬箱へ触れる前に、手を洗える場所ばかりでもない」
「船では、紐の端へ小さな輪を作るわ」
リヴィアが、報告書を横から覗き込む。
「濡れた手でも指を掛けられる。結び目を解かなくても、留め具だけ外せるようにすればいい」
「外しやすくすると、勝手に札を付け替えられないか」
カミラが尋ねる。
「そこは、色紐を通せばいい」
レオンは、厩舎の前で荷を背負わされている驢馬へ目を向けた。
「外箱を開けた時に、一度だけ切る。結び直す時には、別の色を使う。途中で開けたことだけでも、字を読まなくても分かる」
「色を増やしすぎれば、混乱する」
「最初に出す時、途中で開けた時、倉庫へ戻した時。三つくらいでよいと思う」
レオンが答えると、アーデルハイトは、少しだけ考えたあとで帳面へ書き込んだ。
「今日の午後に出す薬箱で、試してみます」
「最初から答えを決めないのだな」
レオンが言う。
アーデルハイトは、顔を上げた。
「仕組みは、使うために作ります」
声は穏やかだった。
しかし、言葉には迷いがない。
「最初に考えた形を守ることが目的ではありません。現場で使いにくいのであれば、直すべきです」
昨日、河川倉庫でも、同じ姿勢だった。
薬箱の数が合わなかったからといって、誰かを責めることから始めない。急いで薬を送る必要があったことも、書類が追いつかなかったことも、どちらか一方だけを正しいと決めない。
何が起きたのかを確かめる。
次に、同じ状況へなった時にも使える形へ直す。
レオンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「父親に似ている」
「似ていません」
アーデルハイトの返答は早かった。
「似ているわよ、アーデル」
リヴィアが楽しそうに言う。
「リヴィアまで」
「褒めているの」
「褒め方を変えて」
アーデルハイトが、困ったように眉を寄せる。
その顔には、本気で不快に思っている様子はなかった。
父親へ敬意を抱いていないわけではない。
ただし、似ていると言われれば、素直に受け入れにくいらしい。
「朝食は?」
リヴィアが尋ねた。
アーデルハイトは、手にしていた帳面へ視線を戻した。
「あとで取ります」
「まだなの?」
「急ぎの報告がありましたから」
「昨日も、似たことを言っていたわね」
「昨日とは、別の報告です」
「報告の内容を聞いているのではないの」
リヴィアは、呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情には、苛立ちよりも心配の方が強く滲んでいた。
港へ着いた直後にも、リヴィアはアーデルハイトの顔を覗き込み、最初に疲れていると言った。
遠く離れた土地で交易を担い、複数の船を動かしながらも、久しぶりに会った友人の顔色には、すぐに気付く。
「アーデル。記録札を使いやすくする前に、自分の扱い方も少し考えた方がいいわ」
「私は、荷物ではありません」
「荷物の方が、決められた場所で積み替えられて、決められた時間に休ませてもらえるかもしれない」
「私は、自分で休む時間を決められます」
「決められる人は、朝食を後回しにしないのよ」
アーデルハイトは、ようやく帳面を閉じた。
ほんの少しだけ眉を寄せ、リヴィアを見る。
「到着してから、私の仕事ぶりへ口を出しすぎではありませんか」
「心配しているの」
「それは分かります。ですが、私はもう子どもではありません」
「知っているわ」
リヴィアは、すぐに答えた。
「子どもだと思っているなら、こんな言い方はしない。あなたが、自分の仕事へ責任を持っていることも、簡単には投げ出さないことも知っている。だから、倒れるまで続けそうで心配なの」
アーデルハイトは、すぐには答えなかった。
反論しようとした言葉を、一度飲み込んだように見えた。
「……もう、口うるさい姉を持った覚えはありませんよ」
「私も、聞き分けの悪い妹を持った覚えはないわ」
リヴィアは、穏やかに笑った。
「でも、港へ戻るたびに顔色を確かめたくなる相手は、そう多くないのよ」
「それは、ずるい言い方です」
「効いた?」
「効いていません」
「では、朝食は?」
アーデルハイトは、閉じた帳面を胸元へ抱え直した。
「食堂で取ります」
「黒パンを片手に、執務室へ戻るのではなく?」
「食堂で、座って取ります」
「よろしい」
満足そうに頷くリヴィアを見て、アーデルハイトは、困ったように息を吐いた。
けれど、その声には、拒絶ではなく、長く続いた関係にしか生まれない柔らかさがあった。
「本当に、こんな姉にもった覚えはないのですが」
「何度でも言って構わないわ。私も、何度でも心配するから」
そのやり取りを聞いていたカミラが、ほんのわずかに口元を緩めた。
「リヴィアの言うことにも、一理ある」
アーデルハイトが、少しだけ意外そうに顔を向ける。
「カミラさんまで、そちら側へ回るのですか」
「現場を見ることは必要だ。だが、疲れた状態で帳簿を読めば、見落とすものも増える」
カミラは、そこで少しだけ言葉を切った。
包帯の外れた右手へ、視線を落とす。
「休まずに動き続けることが、常に正しいとは限らない。私も、最近になって何度か言われた」
「誰に?」
リヴィアが尋ねる。
カミラは、ほんの少しだけ黙り、レオンへ視線を向けた。
「あんた以外の全員にだ」
「俺も、言った覚えがある」
「一番、説得力がなかった」
レオンが反論しようとすると、リヴィアが声を上げて笑った。
アーデルハイトも、閉じた帳面を胸元へ抱えたまま、わずかに目を細める。
カミラは、二人の笑いへ完全に混ざるわけではなかった。
けれど、一歩離れて見ているだけでもなかった。
まだ始まったばかりの関係である。
それでも、同じ食卓へ向かう程度には、距離が縮まり始めていた。
「俺も同行しよう」
レオンが言うと、カミラが顔を向けた。
「あんたは、朝食を食べただろう」
「歩けるようになった祝いとして、二度目の朝食を取ることには意味がある」
「ない」
「身体が、失ったものを取り戻そうとしている」
「酒だけでなく、食事も医師へ管理してもらうか」
「そこまで自由を奪うのは、統治ではなく圧政だ」
「医療だ」
診療室で何度も聞いた言葉を、カミラは迷いなく返した。




