第六十三部 道は、広ければよいわけではない話 ① 杖を置く朝と、新しい記録札
河川倉庫で薬箱の数が合わなかった理由を確かめ、新しい記録札を試すことが決まった翌朝、レオンはアルムロイト辺境伯府の客棟にある診療室で、年配の女医から杖を使わずに歩くよう命じられた。
窓の外には、夜明け前まで谷を覆っていた霧が残っている。白い靄の向こうからは、雪解け水を集めた川の音が絶え間なく響き、医務室の前を荷車が通るたび、湿った石畳を踏む車輪の音が、石造りの壁を通して低く伝わってきた。
レオンは、昨日だけ使った山樫の杖を診療台の脇へ置いた。
滑りやすい坂道では、確かに役へ立った。河川倉庫から戻る頃には、脇腹の奥へ鈍い痛みが戻り始めていたため、女医の判断が間違っていなかったことも認めている。
だからといって、今後も持ち歩きたいとは思わない。
役目を終えたのならば、早く返したかった。
「部屋の端まで。急がずに」
女医に言われ、レオンは一歩目を踏み出した。
足を着き、身体の重さを移し、普段より少しだけ慎重に歩幅を広げる。脇腹を強く捻れば、傷の奥に薄い引きつれが残っている。太腿の付け根にも、長く歩いたあとに感じる硬さが、まだ完全には消えていない。
それでも、普通に歩ける。
窓辺まで進み、身体の向きを変え、診療台の前まで戻る。
女医は、レオンの歩き方をしばらく観察したあと、脇腹の傷を確かめ、脚を曲げ伸ばしさせ、床へ置いた足へ力を入れるよう指示した。
最後に、机へ開いていた診療記録へ短く書き込む。
「日常生活へ戻って構いません。辺境伯府の周囲を歩くことも、無理のない範囲で領内へ出ることも認めます。杖は、もう使わなくてよいでしょう」
「ようやくか」
レオンは、思わず息を吐いた。
市場へ行くことも、倉庫へ行くこともできた。
しかし、どこへ向かうにも医師の許可が必要で、途中で痛みが増せば戻るよう命じられ、坂道では歩幅まで見張られていた。
歩ける距離を、自分で決められない。
それが、思っていた以上に息苦しかったらしい。
自由に歩ける。
ただそれだけのことが、嬉しかった。
「ただし、全力で走らない。長時間の騎乗は避ける。重い荷物を持たない。剣を使った訓練と、戦闘もまだ認めません」
「戦闘は、自分で選べないこともある」
「選べる場所へ、自分から入らないでください」
「難しい注文だな」
「それから、お酒もまだ禁止です」
レオンは、肩を回そうとしていた手を止めた。
「待ってくれ」
「待ちません」
「歩いてよい。馬車にも乗ってよい。領内へ出てもよい。それなのに、酒だけは駄目なのか」
「傷の奥に痛みが残っている間は、駄目です」
「薄い葡萄酒ならば、薬湯と大きくは違わないと思う」
「大きく違います」
「水で割れば?」
「駄目です」
「香りを確かめるだけならば?」
「飲むでしょう」
「土地の文化を理解するためには、味を確かめなければならない場面もある」
「その場合も、飲まないでください」
女医の声には、交渉の余地がなかった。
レオンは、杖を返すことには何の抵抗も感じなかったが、酒を禁じられたことには、深い理不尽を感じた。
「回復を祝う一杯まで禁じられるとは思わなかった」
「完全に回復したら、祝いなさい」
「その言葉は、覚えておく」
「都合のよい部分だけ覚えないでください」
女医は、レオンが置いた杖を棚へ戻すと、診療台の反対側へ顔を向けた。
「次は、カミラさん」
カミラは、椅子へ腰を下ろし、机の上へ右手を置いた。
包帯がほどかれていく。
何日も白い布の下へ隠れていた手の甲には、まだ赤みの残る傷跡が走っている。女医に促され、カミラは一本ずつ指を曲げ、ゆっくりと拳を作り、再び開いた。
「強く握ると?」
「少しだけ、傷の奥が引かれる」
「普通に使って構いません。ただし、剣を長く握ることと、重いものを片手で持つことは、もう少し避けてください。包帯は、今日で外します」
カミラは、机の上へ置いた右手を見つめた。
指先を開き、もう一度、静かに閉じる。
表情は大きく変わらなかった。
けれど、目元に残っていた強張りが、ほんの少しだけ消えた。
レオンには、その理由が分かる気がした。
カミラにとって、右手は、単に剣を握るためのものではない。
帳簿をめくる。
証言を書き留める。
馬の手綱を取る。
必要な荷を持つ。
誰かに奪われ、誰かに命じられる側だった時間が長かったからこそ、自分の身体を自分の意志で使えることには、特別な意味がある。
「二人とも、少し動けるようになった途端、それまでの遅れを全部取り戻そうとしないでください」
女医は、机の上の記録を閉じた。
「カミラさんは、帳面を抱えて一日中歩かない。レオンさんは、困っている人を見つけても、最初から一人で解決しようとしない。それから、お酒は禁止です」
「最後だけ、二度言う必要はあったか」
「必要があると思いました」
「信用が足りない」
「これまでの行動に基づいています」
返答には、考える間すらなかった。




