第六十二部 薬箱の数が合わず、犯人がいない話 Another Side:レヴォナ自由都市同盟へ続く南部街道・灰十字医療団臨時救護所
同じ頃。
レヴォナ自由都市同盟へ続く南部街道では、宿駅に隣接する古い荷馬車小屋が、灰十字医療団の臨時救護所として使われていた。
春先に入ってから、鉱山町と街道沿いの宿駅で、熱を出す者、足を腫らす者、立ち眩みを訴える者が増えている。
鉱山労働者。
荷運び人。
馬車を操る御者。
旅の途中で倒れた商人。
重い怪我人ばかりではない。
だが、体力を削られた者が休める場所を持たなければ、次の村へ着く前に重症化する。
そのため、灰十字医療団は街道沿いの診療所から要請を受け、薬、包帯、保存食を積んだ荷車と共に、数日間の臨時救護所を開いていた。
夕方の診療が終わりに近づいても、ヴェロニカの前には、まだ数人の患者が残っている。
簡素な寝台へ座る鉱山労働者は、四十歳を少し越えた頃だろう。咳はない。熱も高くない。だが、頬は痩せ、立ち上がろうとすると、膝へ力が入らなかった。
ヴェロニカは、男の瞼を指で持ち上げ、次に爪と舌の色を確かめた。
「最後に、まともな食事を取ったのはいつだ」
「昨日も、パンは食いました」
「量を訊いている」
男が、少しだけ目を逸らす。
「朝に半分。夜に半分」
「仕事は?」
「鉱山で、いつも通りです」
「それで足りると思っているのか」
ヴェロニカの声は厳しい。
だが、責めているわけではない。
男の横へ置かれた水差しを取り、飲ませる量を確かめる。
「薬だけでは戻らない。今夜は、救護所で食べてから休め。明日も坑道へ入るな」
「休めば、給金が」
「倒れれば、もっと長く働けない」
男は、しばらく黙った。
そのあと、外衣の内側から銀貨を数枚取り出した。
「食事代は、払います」
「診療と今夜の食事に、金は取らない」
ヴェロニカは言った。
「灰十字の救護所だ」
「でも」
「しまえ」
迷いを許さない声音だった。
男は、銀貨を握ったまま、ゆっくり頷いた。
その様子を、少し離れた机でエルゼが見ていた。
机の上には、薬箱の目録、街道沿いの診療所から届いた要請書、移送札、保存食の残数、仕入れ先から渡された受領証が並んでいる。
エルゼは、診療の合間に患者の名前を書き留めるだけではない。
どの診療所へ、何を送ったのか。
どの薬が減っているのか。
どの荷車が遅れたのか。
不足分を、どの町で買い足せるのか。
灰十字医療団が街道で救護を続けるためには、治療と同じくらい、記録と補給が欠かせない。
「その銀貨を、一枚だけ見せてもらえますか」
エルゼが言った。
鉱山労働者は戸惑ったように、手の中の銀貨を見る。
「診療代は、本当に要りません。ただ、少し確認したいことがあります」
男は、一枚だけ机へ置いた。
エルゼは、銀貨の刻印を確かめ、薄い紙へ写し取る。
「給金として受け取ったものですか」
「ええ。三日前に」
「鉱山町で?」
「そうです」
「食事が減ったのは、給金が下がったから?」
「額面は、同じです」
男は、疲れた顔で笑った。
「でも、宿でも店でも、新しい銀貨は嫌がられる。パン屋じゃ、二枚出しても、前と同じだけは売れないと言われた。古い銀貨なら、そのまま使えるそうです」
ヴェロニカの手が、止まった。
「同じ銀貨ではないのか」
「見た目は、同じです」
男は答える。
「俺には、分かりません。ただ、店の親父は、軽いと言っていました」
エルゼは、机の端へ置かれた小さな秤を引き寄せた。
灰十字医療団が、薬材を量るために使うものだ。
銀貨を皿へ載せる。
重りを合わせる。
針が、わずかに傾く。
同じ刻印の古い銀貨より、少しだけ軽い。
「やはり」
エルゼが、小さく言った。
机の端には、別の布へ包まれた銀貨が数枚置かれていた。
患者から取り上げたものではない。
昼間、薬と麦粉を買い足すため町へ出た時、仕入れ先の商人から受け取りを渋られた銀貨だった。
灰十字医療団の財布にも、同じような軽い貨幣が混じり始めている。
ヴェロニカは、鉱山労働者へ顔を向けた。
「今夜は、食べて休め。明日の仕事は休むよう、こちらから書付を出す」
「鉱山が、認めますか」
「認めさせる。倒れた人間を坑道へ入れるほど、愚かでないことを期待している」
ヴェロニカは、次の患者を呼ぶ前に、エルゼへ目を向けた。
「増えているのか」
「銀貨だけではありません」
エルゼは、帳面を開いた。
「薬と保存食の仕入れ額も、二週間前より上がっています。麦粉を売る商人が、新しい銀貨を額面どおりに受け取りません。古い銀貨か、別の貨幣を求めています」
「だから、食事を削る者が増えた」
「おそらく」
エルゼは、別の紙を取り出した。
「それから、鉱山町の診療所から届いた移送札に、少し気になる点があります」
向かい側の椅子で、リューリックが顔を上げた。
大柄な身体を椅子へ収め、左腕へ新しい包帯を巻かれている。数日前から、無理に剣を振るなとヴェロニカへ繰り返し言われていた。
診療が一段落した時間には、水桶を運び、寝台を整え、保存食の箱を移す程度の手伝いはしている。
ただし、患者であることは変わらない。
ヴェロニカが認めた範囲を越えて動けば、すぐに座らされる。
「移送札の、どの点でしょうか」
リューリックが訊いた。
声音は、いつも通り落ち着いている。
エルゼは、二枚の札を机へ並べた。
「こちらは、鉱山町から南部街道の診療所へ送られた薬の受領札。こちらは、同じ日に、別の宿駅へ回された包帯と保存食の移送札です」
「荷車の名が、同じですね」
「はい」
「時刻も近い」
「同じ荷車が、同じ時間に二つの道を通ったことになる」
エルゼは、指先で、札へ書かれた商人の印を示した。
「単純な転記ミスかもしれません。ただ、医療物資の数が合わなくなれば、診療所へ薬が届かない。明日、鉱山町の診療所で、元の帳面と照合する必要があります」
ヴェロニカが、包帯を畳みながら言った。
「明日は、鉱山町へ行く」
診療所から、正式に応援を求める書状が届いていた。
熱を出す者。
足を腫らす者。
食事を減らし、仕事中に倒れる者。
薬の在庫も不安定になっている。
ヴェロニカは、患者を診る。
エルゼは、薬箱と移送札を照合する。
それが、灰十字医療団としての役目だった。
「リューリック」
ヴェロニカが呼んだ。
「はい」
「お前は、残れ」
「申し訳ありませんが、その指示には従えません」
ヴェロニカの眉が、わずかに上がる。
「患者が、医師へ反抗するのか」
「反抗ではありません」
リューリックは、包帯の巻かれた左腕へ一度だけ目を向けた。
「剣を振るうつもりも、独断で先行するつもりもありません。ただ、鉱山町へ向かう荷車の商人は、私がニーナ殿の村から追っている軽銀の経路と重なる可能性があります」
「私たちは、捜査へ行くわけではない」
「承知しております」
返答には、迷いがない。
「ヴェロニカ殿は、患者を診る。エルゼ殿は、薬と記録を確かめる。私は、道中の護衛と荷運びを担当し、必要であれば商人の経路を別に確認します。皆様を、私の調査へ巻き込むつもりはありません」
「荷運び?」
ヴェロニカは、リューリックの左腕を見る。
「右腕と両脚は動きます」
「患者が、自分で仕事を増やすな」
「重い荷は持ちません」
「お前の言う重い荷と、普通の人間が言う重い荷は違う」
エルゼが、少しだけ口元を緩めた。
「それは、私も心配です」
リューリックは、しばらく黙った。
「では、持つ荷は、エルゼ殿に指定していただきます」
「そこまでして行くの?」
「はい」
リューリックは、机へ置かれた軽い銀貨を見る。
「軽銀の流れが、診療所の薬と、患者の食事へまで影響しているのであれば、見過ごすことはできません」
ヴェロニカは、深く息を吐いた。
「条件がある」
「伺います」
「剣は、抜くな。荷は、エルゼが許可したものだけ。私たちの巡回を外れて、勝手に消えるな。商人へ確認する時も、一人で動くな」
「承知しました」
「それから、傷が開いたら、即座に荷車へ戻す」
「異論はありません」
「本当に分かっているのか」
「医師の指示へ従うことも、護衛の責務に含まれると理解しております」
言葉だけを聞けば、完璧だった。
ヴェロニカは、信用しきれない顔をしている。
エルゼも同じだった。
だが、完全に止めても、別の道から一人で追う可能性がある。
それならば、目の届く場所へ置いた方がよい。
ヴェロニカは、諦めたように言った。
「分かった。明朝、鉱山町へ向かう。ただし、灰十字は灰十字の仕事をする」
「承知しております」
「お前は、護衛だ」
「はい」
「患者でもある」
「はい」
「そこを、最初に忘れるな」
リューリックは、わずかに頭を下げた。
「肝に銘じます」
救護所の奥では、先ほどの鉱山労働者が、温かい麦粥を受け取っている。
その隣では、熱を出した子どもへ、エルゼが毛布を掛けていた。
軽銀。
給金。
パン。
薬。
移送札。
荷車。
離れて見えたものが、少しずつつながり始めている。
ただし、ヴェロニカとエルゼが追っているのは、陰謀そのものではない。
目の前の患者へ、食事と薬を届けるための道だ。
リューリックが追っているのは、その道へ穴を開けている者の痕跡だった。
明日、三人は同じ鉱山町へ向かう。
目的は、完全には同じではない。
それでも、歩く道は重なっていた。
──Another Side 了




