第六十二部 薬箱の数が合わず、犯人がいない話 ③ 薄くなる水と、乾燥果実の包み
夕方。
辺境伯府の小さな食事室には、コンラート、アーデルハイト、リヴィア、カミラ、レオンが揃っていた。
大げさな晩餐ではない。
川魚の煮込み、黒パン、山羊乳の乳酪、根菜。コンラートたちの前には薄い葡萄酒が置かれているが、レオンの杯には、今日も水しか入っていない。
杖は、椅子の横へ立て掛けられていた。
コンラートは、河川倉庫から持ち帰られた記録札を手に取った。
「犯人は」
訊いた。
「いない」
レオンが答える。
「では、問題はなかったか」
「ある」
レオンは、水の杯へ指を添えた。
「薬は、必要な場所へ送られていた。橋が止まり、山腹の診療所で熱を出した子どもが増えた。外箱が雨を吸ったから、小箱へ分け、驢馬で運んだ。急ぐ理由はあった」
「それだけなら、よい話だな」
「だが、記録は追いついていない」
レオンは続ける。
「今日、説明を聞けば分かる。一週間後でも、追えるかもしれない。だが、一月後に小箱が一つ消えた時、最初から帳面が揃っていなければ、どこで消えたのか分からない」
コンラートは、何も言わない。
先を待っている。
「犯人がいないから、安心ではない」
レオンは言った。
「犯人がいない時に穴を塞がなければ、次に犯人が通る」
食事室へ、短い沈黙が落ちた。
コンラートの青灰色の目が、わずかに細くなる。
「それで、どうする」
今度は、アーデルハイトが答えた。
「外箱を開けた時点で、荷へ付けた札へ、理由、時刻、担当者、再梱包した数、行き先を残します。外箱と小箱を同じ欄で扱わず、単位を分ける。緊急時には、帳面への転記が遅れても構いません。ただし、荷と一緒に動く札だけは、その場で残します」
「札をなくせば」
「紐へ封を付けます」
リヴィアが答える。
「シーロ船で使っている方法を、簡略化できます。分け直した荷だけなら、現場への負担も大きくありません」
「転記の確認は」
「開けた本人とは別の者が行う」
カミラが言った。
「責めるためではない。見落とさないためだ」
コンラートは、記録札を机へ戻した。
「試せ」
アーデルハイトが頷く。
「明日から、薬箱で始めます。一月後に現場へ聞き、使いにくければ直します」
「それでよい」
コンラートは、次にレオンへ視線を向けた。
「王子殿」
「何だ」
「道を引くとは、立派な線を一本描くことではない」
コンラートは、札へ指を置く。
「急いでいる者が、急いだままでも守れる仕組みを作ることだ」
レオンは、少しだけ黙った。
言葉を胸の中へ落とす。
戦場では、命令を大きな声で伝えれば、兵を動かせる。
少なくとも、動かそうとはできる。
だが、国は命令一つでは動かない。
橋を渡る商人。
荷を分ける倉庫番。
山腹へ薬を運ぶ者。
転記する役人。
確認する者。
全員が、毎日、疲れ、迷い、時には急ぐ。
完璧な人間だけを前提にすれば、制度は最初から壊れている。
「面倒だな」
レオンが言う。
「国を守るのは?」
コンラートが訊く。
「ああ」
「だから、面白い」
コンラートは、薄い葡萄酒へ口を付けた。
レオンは、自分の水を見る。
「学びへの報酬として、少しくらい酒を」
「医師が決める」
「そこだけは、権限移譲しなくてもよいのでは」
「してある」
「戻してくれ」
「却下だ」
コンラートの返答は早かった。
アーデルハイトが、わずかに目を伏せる。
リヴィアは楽しそうに笑い、カミラも杯を口元へ運びながら、ほんの少しだけ口角を上げている。
レオンは、水を飲んだ。
昨日より、少しだけ味が薄い気がした。
◇
食事のあと、リヴィアは、小さな包みをレオンへ渡した。
「何だ」
「乾燥果実」
「俺へ?」
「帳面を見た報酬」
包みを開けば、薄く切った柑橘と、赤い果実が数枚入っている。
蜜は使われていない。
甘さより、香りが強い。
「シーロ共和国は、人材評価が適切だな」
「餌付けするな」
カミラが言った。
「餌ではないわ」
リヴィアは笑う。
「では、返す?」
レオンは包みを胸元へ引いた。
「正当な評価は受け取る」
「都合がいい」
カミラは呆れたように言った。
ただし、取り上げはしなかった。
アーデルハイトが、レオンの杖へ目を向ける。
「明日は、歩く距離を減らしてください」
「今日も、規定範囲内だった」
「戻りの坂で、歩幅が変わっていました」
「見られている」
「かなり」
リヴィアが答える。
カミラは、何も言わなかった。
ただ、客棟へ戻る時、レオンの歩調へ合わせて少しだけ速度を落とす。
その隣を、アーデルハイトとリヴィアが歩いた。
四人の足音が、石造りの廊下へ重なる。
まだ、長い付き合いではない。
カミラとリヴィアは、昨日初めて会ったばかりだ。
アーデルハイトとレオンも、市場で言葉を交わしてから数日しか経っていない。
それでも、同じ帳面を見て、同じ道を歩き、同じ食卓へ座る間に、少しずつ距離が変わっていく。
アルムロイトでの時間は、まだ始まったばかりだった。
──第六十二部 了




