第六十二部 薬箱の数が合わず、犯人がいない話 ② 犯人のいない穴と、カミラの一言
河川倉庫の内部には、薬草、包帯、防湿紙、魚油、乾燥果実、織物が、棚ごとに分けて置かれていた。
湿気を避けるため、床には低い木台が組まれている。川側の搬入口から風は入るが、棚へ直接吹き付けないよう、板と厚い布で仕切りが作られていた。
赤い印の付いた棚には、薬箱がまとめられている。
大きな外箱。
その中へ収める小箱。
さらに、小箱の内側には、薬瓶、包帯、乾燥薬草を分けるための布袋がある。
レオンは、棚の前で足を止めた。
「宿駅では、大きい箱を数えた?」
「そうです」
エルナが答える。
「港から上がった時点では、外箱で十二。途中で雨へ当たった荷があり、こちらで外装を開けました」
「中まで濡れた?」
リヴィアが訊く。
「中身は無事です。ただ、木箱の一部が水を吸い、そのまま山道へ載せるには重くなりました」
エルナは、小箱を一つ持ち上げた。
「薬箱は、辺境伯府へ入れるだけではありません。診療所、鉱山町、橋の向こうの集落、山腹の村へ分けます。昨日は、山側の診療所から、熱を出した子どもが増えたと連絡が入りました」
「外箱を開け、驢馬へ載せられる大きさへ分け直した」
カミラが言う。
「はい。市場に近い診療所へ小箱で七。山腹へ回した分は、荷車ではなく驢馬で運びました」
「それで、見かけ上は増えた」
レオンが言った。
「そうです」
「だが、換算は合わない」
カミラが、棚へ並ぶ箱を見た。
「外箱十二なら、通常は小箱三十六。市場側へ出たのが二十七なら、残り九は?」
「三つは、辺境伯府の医務室へ。四つは、橋を越えた先の診療所へ。二つは、こちらで予備保管しています」
「記録は?」
「あります」
エルナは、棚の横へ掛けられていた木札を外し、裏返した。
表には赤い薬草の印。
裏には、細かな字と、行き先を示す刻み目。
「外箱を開けた時、こちらで残しました。ただし、宿駅側と市場側の帳面へ写しを回せていません」
「なぜ?」
アーデルハイトが訊く。
「昨日、橋が止まりました」
エルナは答えた。
「山腹の診療所へ先に薬を届ける必要がありました。外箱は雨を吸い、そのまま驢馬へ載せられない。写しを運ぶ役人は、橋の通行再開へ回されていました」
薬は、盗まれていない。
隠されたわけでもない。
必要な場所へ送られている。
レオンは、棚へ残る外箱と、木札を見た。
「犯人はいない」
「おそらくは」
エルナが言った。
「おそらく?」
レオンが訊き返す。
答えたのは、カミラだった。
「薬は、全部ある。行き先も確認できる。だが、帳面は揃っていない」
灰色の目が、木札へ向く。
「今日、ここへ来て説明を聞けば分かる。一週間後でも、たぶん追える。だが、一月後に小箱を一つ抜く者が出た時、最初から数がずれている帳面では気づきにくい」
エルナの顔が、少しだけ硬くなる。
「その通りです」
カミラは、責めるようには言わなかった。
橋が止まった。
薬を待つ子どもがいた。
木箱は濡れた。
人手も足りなかった。
先に運ぶ判断は、間違っていない。
だからこそ、次に残すべきものを考える必要がある。
「間違いを責めるだけでは、次から隠すようになる」
カミラは言った。
「だが、忙しかったから残さなくてよいとすれば、必要な時に追えなくなる」
アーデルハイトは、木札を受け取った。
「外箱を開けた時点で、宿駅、市場、倉庫の記録へ同じ内容を写す必要があります」
「役人を増やしますか」
エルナが訊く。
「増やせるなら、その方がよいでしょう。ただ、毎回は難しいですね」
アーデルハイトは、少しだけ考え込んだ。
レオンは、棚へ並ぶ木札を見た。
文字。
色。
記号。
刻み目。
誰もが、忙しい。
すべての者が、長い文章を書けるわけでもない。
「書類を増やしすぎると、書かなくなる」
レオンが言った。
三人の視線が向く。
「奴隷施設でも、傭兵団でも、細かすぎる命令は守られなかった。守らない方が悪いと言えば、それまでだ。だが、雨の中で箱を開け、熱を出した子どもへ薬を運ぶ時に、三枚の帳面を全部書けと言っても、後回しになる」
「では、残さない?」
アーデルハイトが訊く。
「残す」
レオンは、エルナが持つ木札を指差した。
「先に、一つだけ残す。外箱を開けた時刻、開けた人間、小箱へ分けた数、行き先。それを、荷と一緒に動く札へ書く。字を書く余裕がなければ、色と刻み目だけでもよい。帳面へ写すのは、あとでいい」
カミラの灰色の目が細くなる。
「最初の記録だけは、荷から離さない」
「そうだ」
「札をなくせば?」
「箱へ結び付ける。外したら、分かるようにする」
レオンは、棚の横へ掛けられた紐を示した。
「傭兵団では、食糧袋へ細い革紐を通した。開ければ、結び目が変わる。完璧ではない。だが、何も残さないよりはよい」
「船でも、似た方法を使います」
リヴィアが言った。
「水濡れへ弱い荷は、油を引いた札へ、船名、荷役日、外装を開けた理由を書き、紐へ封を付けます。すべての箱へ使うのは重いけれど、分け直した荷だけなら運用できます」
アーデルハイトは、手元の帳面へ書き込み始める。
「倉庫用の札へ、開封、再梱包、行き先変更の欄を追加する。外箱と小箱を同じ欄で数えず、単位も分ける。緊急時は、札を先に残し、帳面への転記はあとで確認する」
「確認する者は、開けた本人以外がよい」
カミラが言った。
「忙しい時には、誰でも間違える。責めるためではなく、見落とさないために」
エルナは、四人の顔を順番に見た。
「現場へ戻せる形なら、使えます」
「まず、薬箱だけで試しましょう」
アーデルハイトが頷く。
「使いにくい部分があれば、直します。そのあとで、必要な荷へ広げます」
犯人はいない。
だが、安心して終わってよい話でもない。
悪意がなくても、記録はずれる。
善意で急いでも、穴は開く。
その穴を放置すれば、次に悪意を持った者が通れる。
橋と同じだ。
壊れてから慌てるのでは遅い。
◇
倉庫を出る頃には、川沿いの道へ昼前の光が差していた。
山の斜面へ残っていた雪が少しずつ解け、石壁の間を細い水となって流れている。
レオンは、杖を使って坂を上った。
来る時より足取りは重い。
脇腹へ、鈍い痛みも戻り始めている。
カミラが、横から見る。
「戻るぞ」
「まだ歩ける」
「医師は、痛みが増えたら戻れと言った」
「増えたとは言っていない」
「歩幅が狭くなった」
レオンは、少しだけ黙った。
見られている。
かなり。
「観察力が高すぎる」
「分かりやすいだけだ」
「その言葉は、昨日まで俺へ使っていた」
「便利だから残す」
カミラは、レオンの歩調へ合わせて速度を落とした。
手を貸すわけではない。
杖を奪うわけでもない。
ただ、同じ速度で歩く。
アーデルハイトも、その様子を見たあと、自分の歩調を緩めた。
リヴィアは何も言わず、少し前へ出て、向かいから来る荷車へ道を空けるよう手で合図する。
四人は、河川倉庫から辺境伯府へ続く坂を、急がずに戻った。
途中で、川向こうの山腹へ続く細い道が見えた。
驢馬が二頭、赤い札を付けた小箱を背へ載せ、護衛と共にゆっくり登っていく。
熱を出した子どもたちへ運ばれる薬だろう。
帳面の数字だけではない。
箱の向こうには、人がいる。
だから、急ぐ必要がある。
だからこそ、残す必要もある。
「難しいな」
レオンが言った。
「何が」
カミラが訊く。
「急げと言いながら、記録も残せと言う。現場へ任せろと言いながら、あとで確かめろと言う。人を信用しろと言いながら、間違える前提で仕組みを作れと言う」
「矛盾しているように見える?」
「少し」
「だが、どれか一つだけでは足りない」
カミラは、山腹へ向かう驢馬を見た。
「善意だけでも、規則だけでも、人は守れない」
レオンは、杖の先を石畳へ置いた。
「監察官らしい」
「嫌か」
「いや」
少しだけ考える。
「悪くない」
カミラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。




