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第六十二部 薬箱の数が合わず、犯人がいない話 ① 杖と、合わない薬箱の数

 翌朝、レオンは客棟の診療室で、一本の杖を渡された。


 山樫を削り、手のひらへ当たる部分だけを滑らかに磨いた簡素な杖だった。装飾はなく、先端には、雪解け水で濡れた石畳でも滑らないよう硬い革が巻かれている。


 よくできた実用品である。


 だからこそ、二十八歳の男が喜んで受け取りたい品ではなかった。


「これは、本当に必要か」


 レオンは、杖を床へ立てたまま訊いた。


「必要です」


 年配の女医は、机へ置いた診療記録から顔を上げなかった。


「昨日より歩ける範囲を広げます。ただし、坂道では必ず使ってください。痛みが増したら戻る。荷物は持たない。途中で困っている人を見つけても、自分から走らない」


「最後の注意だけ、俺への評価が低すぎないか」


「これまでの報告に基づいています」


「俺は、アルムロイトへ入ってから一度も走っていない」


「走ろうとする前に、周囲が止めています」


 女医は淡々と答え、次に、診療台の横へ座るカミラの右手を取った。


 カミラの手首には、新しい包帯が巻かれている。昨日、港湾記録室と客棟を往復した疲れが少し残っているのか、顔色は悪くないものの、普段より口数が少ない。


「カミラさんも、今日は長く歩かないでください」


「分かっている」


「昨日も、同じ返事を聞きました」


「今日は守る」


「昨日は?」


 カミラが、ほんの少しだけ黙る。


 レオンは、杖へ身体を預けたまま横から顔を覗き込んだ。


「監察官殿。正直さは、信頼の基礎だと思う」


「あんたは黙っていろ」


「患者同士、支え合う必要がある」


「杖で自分を支えてから言え」


 女医は、二人の会話へ口を挟まなかった。


 ただし、机の上へ置かれた記録へ何かを書き込む。


「何を書いた」


 レオンが訊く。


「二名とも、自己評価を信用しすぎないこと、と」


「扱いが同じになった」


「不本意だ」


 カミラの返答は早かった。


 診療室の戸が叩かれた。


 入ってきたのは、アーデルハイトとリヴィアだった。


 アーデルハイトは、濃い栗色の髪を一つにまとめ、深緑色の外套の下へ動きやすい長衣を着ている。腰には帳面を下げ、片手には、昨日レオンが印を付けた市場記録の写しを持っていた。


 その隣に立つリヴィアは、シーロ船団で使う濃紺の外套を羽織っている。船から降りたばかりだった昨日より髪は整っているが、腰へ下げた革袋と、動きやすさを優先した靴は変わらない。


「おはようございます」


 アーデルハイトが言った。


「ちょうどよいところへ来た」


 レオンは、杖を少しだけ持ち上げる。


「意見を聞きたい。この姿は、療養中の賢人に見えるか。それとも、年齢を二十ほど上へ見積もられるか」


 アーデルハイトは、少しだけ考えた。


「山道で転ばない方に見えます」


「評価の軸が実用的すぎる」


「この土地では、かなり重要です」


「似合っているわ」


 リヴィアが続けた。


「その言葉に、敬意が感じられない」


「正しく使うなら、敬意は払います」


「色男が持つには、少し早い」


「傷を開く男が持つには、ちょうどいい」


 カミラが言った。


 レオンは杖の先を床へ戻した。


 どうやら、味方はいない。


「昨日、気づかれた薬箱の件ですが」


 アーデルハイトが、手元の記録を開く。


「父から、現場を確かめてくるよう言われました。宿駅を通った数より、市場へ入った数の方が多い。記録単位の違いか、別路から入った荷か、それとも単純な記載漏れか。河川倉庫まで、歩けますか」


「行く」


 レオンは即答した。


「杖を使って」


 女医が言う。


「使う」


「坂道では、急がない」


「急がない」


「途中で、別のものへ興味を持って進路を変えない」


「最大限、努力する」


「守る、ではなく?」


 レオンは、少しだけ考えた。


「未来を断定しない誠実さも必要だと思う」


 カミラが、静かに息を吐く。


「私も行く」


「倉庫と記録室までです」


 アーデルハイトが答えた。


「河川倉庫は、すぐ隣です。ただし、荷物は持たないでください」


「持たない」


「昨日、銀貨の袋を自分で運ぼうとしていた」


 リヴィアが言う。


「軽かった」


「重さの問題ではありません」


 アーデルハイトは、ほんの少しだけ困ったように笑った。


 昨日までのカミラなら、自分の判断へ踏み込まれることを嫌い、そこで会話を切ったかもしれない。


 だが、今日は短い間を置き、頷いた。


「分かった」


 不満がないわけではない。


 それでも、拒まない。


 レオンは、その小さな変化を見た。


 何も言わなかった。


 余計なことを言えば、杖で支えるべき場所が増える可能性がある。



 ◇


 河川倉庫は、辺境伯府から川沿いの坂を下り、二つ目の橋を渡った先にあった。


 距離だけを見れば、遠くはない。


 しかし、平坦でもない。


 雪解け水を逃がす細い水路が道の両側へ走り、石畳はところどころ湿っている。河川港から上がってくる荷車と、辺境伯府へ書類を届ける役人が絶えず行き交い、その間を、レオン、カミラ、アーデルハイト、リヴィアの四人が、急がずに歩いていく。


 リヴィアが同行したのは、問題となった薬箱がシーロ便で運ばれてきた荷だったためだ。


 船から港へ降ろした時点で、いくつの外箱があったのか。


 どの箱が雨へ当たり、どの箱が川沿いの道へ回されたのか。


 サレーネ船団側の目録も、照合する必要がある。


 坂の途中で、レオンは杖の先を石畳へ置き直した。


「使い方へ慣れてきた」


「自慢するところではない」


 カミラが言う。


「適応力は重要だ」


「医師の指示へ、もっと早く適応しろ」


「かなり従っている」


「出発前に、進路変更の可能性を残した男が?」


「誠実だったと言ってほしい」


 カミラの灰色の目が、わずかに細くなる。


 レオンは、そこで話を切った。


 昨日から、引き際だけは確実に上達している。


 倉庫は、川沿いの石台へ荷車を横付けできるよう作られていた。


 石造りの一階。


 木造の二階。


 川側へ大きく開く搬入口。


 入口の脇には、赤、青、黄、白の木札が並び、それぞれに荷の種類を示す簡単な記号が刻まれている。


 赤は薬。


 青は、水濡れを嫌う紙と布。


 黄は穀物。


 白は、検査待ち。


 文字を読めない者でも、荷を置く場所を間違えにくい。


「市場と同じだな」


 レオンが言った。


「文字だけへ頼らない」


「ええ」


 アーデルハイトが頷く。


「急いでいる時ほど、人は間違えます。色と印の両方を使えば、荷札を読む時間がなくても、大きな取り違えは減らせます」


 倉庫の中から、太い声が聞こえた。


「アーデルハイト様。お待ちしていました」


 出てきたのは、五十代半ばほどの女だった。


 短く切った灰褐色の髪を布で覆い、厚い前掛けの腰へ鍵束を下げている。腕は太く、指には、長く縄と木箱を扱ってきた者らしい硬い節があった。


「河川倉庫主任、エルナ・ヴァイスです」


 女は名乗り、四人を順番に見た。


 レオンの杖。


 カミラの包帯。


 リヴィアの外套。


 アーデルハイトの帳面。


 視線は短い。


 だが、必要なものは見ている。


「昨日の薬箱ですね」


「はい」


 アーデルハイトが、記録の写しを渡した。


「宿駅では外箱が十二。市場側では小箱が二十七。通常の換算と合いません」


「現物を見ていただいた方が早いでしょう」


 エルナは、四人を倉庫の中へ案内した。



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