第六十部 王子殿は、道中で何を見てきたのかという話 ④ 控えめな叩く音と、川の音の廊下
食事が終わりに近づいた頃、戸の外から、控えめに叩く音がした。
若い秘書官が入り、コンラートへ紙を一枚渡す。
「港から、早馬です」
コンラートは、短い報告へ目を通した。
青灰色の目が、少しだけ細くなる。
「予定より早いな」
アーデルハイトが顔を上げた。
「シーロの船ですか」
「ああ」
声の響きが、ほんの少しだけ変わった。
辺境伯家の後継者として整っていた表情に、個人的な喜びが混ざる。
「誰が来るのですか」
カミラが訊いた。
アーデルハイトは、報告書へ目を向けたまま答えた。
「シーロ共和国のサレーネ商会から、西方の港湾記録と銀貨の見本を運んでくる方です。海路を通じて、西方諸国の情報を集めています」
そこまで説明したあとで、声が少しだけ柔らかくなる。
「港では、海の姫と呼ばれています。リヴィアです」
レオンは、水の入った杯から顔を上げた。
「リヴィアが来るのか」
「知っているのか」
カミラが横を見る。
「少しな」
「少し、で済む相手ではありません」
アーデルハイトが言った。
その言葉には、後継者としての評価だけではなく、親しい友人を迎える喜びが混じっている。
秘書官が続けた。
「港へ入ったのは先遣船です。本船も、明日の昼頃には到着する見込みです。リヴィア殿ご本人が乗船されています」
「本人が来るなら、書状だけでは済まない話だ」
コンラートが言った。
「西側でも、軽い銀貨が出たのでしょうか」
アーデルハイトが訊く。
「明日、聞く」
コンラートは、報告書を卓へ置いた。
「急ぐな。二人は、まず傷を治せ。歩ける範囲が増えれば、見るべき場所はいくらでもある」
「港は」
カミラが訊く。
「医師が許せば、そのうちな」
コンラートが答える。
「明日は、近場の帳簿からでよい」
「私は、歩ける」
「カミラ・パヴェル」
コンラートの声は穏やかだった。
「止めるべき時に止めることも、監察官の仕事ではないのか」
カミラが、ほんの少しだけ黙る。
「……分かった」
レオンは、水の杯を持ったまま、口元を緩めた。
「何がおかしい」
カミラが低い声で訊く。
「いや。教師が増えたと思っただけだ」
「あんたもだ」
「俺は、自覚がある」
「自覚だけで、傷は塞がらない」
コンラートが言った。
アーデルハイトが、そっと目を伏せる。
今度こそ、笑いを隠していた。
◇
食事を終え、客棟へ戻る廊下では、窓の外から川の音が聞こえていた。
レオンは、無意識に歩幅を狭くする。
長く座っていたため、脇腹が少しだけ痛む。
カミラは何も言わなかった。
ただ、数歩先へ出たあと、速度を落とす。
並んで歩ける程度まで。
「帳簿を見るのが、楽しみか」
レオンが訊いた。
「仕事だ」
「少し、顔が楽になった」
カミラは、すぐには答えなかった。
廊下の窓から、谷の灯りを見る。
河川港。
倉庫。
橋。
細い道。
働く人間の声。
「追われるだけよりは、よい」
やがて、言った。
短い言葉だった。
だが、レオンには十分だった。
「そうだな」
二人は、そのまま客棟へ戻った。
大陸のどこかでは、軽い銀貨が流れ始めている。
海の向こうからは、シーロ共和国の船が近づいている。
イタリカが、カミラの行方をいつまで見失っているのかも分からない。
平穏が永遠に続くとは、誰も思っていない。
それでも、今夜だけは、傷を休めてよい。
レオンは、谷を流れる水の音を聞きながら、そう思った。
──第六十部 了




