表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

312/349

第六十部 王子殿は、道中で何を見てきたのかという話 ④ 控えめな叩く音と、川の音の廊下


 食事が終わりに近づいた頃、戸の外から、控えめに叩く音がした。


 若い秘書官が入り、コンラートへ紙を一枚渡す。


「港から、早馬です」


 コンラートは、短い報告へ目を通した。


 青灰色の目が、少しだけ細くなる。


「予定より早いな」


 アーデルハイトが顔を上げた。


「シーロの船ですか」


「ああ」


 声の響きが、ほんの少しだけ変わった。


 辺境伯家の後継者として整っていた表情に、個人的な喜びが混ざる。


「誰が来るのですか」


 カミラが訊いた。


 アーデルハイトは、報告書へ目を向けたまま答えた。


「シーロ共和国のサレーネ商会から、西方の港湾記録と銀貨の見本を運んでくる方です。海路を通じて、西方諸国の情報を集めています」


 そこまで説明したあとで、声が少しだけ柔らかくなる。


「港では、海の姫と呼ばれています。リヴィアです」


 レオンは、水の入った杯から顔を上げた。


「リヴィアが来るのか」


「知っているのか」


 カミラが横を見る。


「少しな」


「少し、で済む相手ではありません」


 アーデルハイトが言った。


 その言葉には、後継者としての評価だけではなく、親しい友人を迎える喜びが混じっている。


 秘書官が続けた。


「港へ入ったのは先遣船です。本船も、明日の昼頃には到着する見込みです。リヴィア殿ご本人が乗船されています」


「本人が来るなら、書状だけでは済まない話だ」


 コンラートが言った。


「西側でも、軽い銀貨が出たのでしょうか」


 アーデルハイトが訊く。


「明日、聞く」


 コンラートは、報告書を卓へ置いた。


「急ぐな。二人は、まず傷を治せ。歩ける範囲が増えれば、見るべき場所はいくらでもある」


「港は」


 カミラが訊く。


「医師が許せば、そのうちな」


 コンラートが答える。


「明日は、近場の帳簿からでよい」


「私は、歩ける」


「カミラ・パヴェル」


 コンラートの声は穏やかだった。


「止めるべき時に止めることも、監察官の仕事ではないのか」


 カミラが、ほんの少しだけ黙る。


「……分かった」


 レオンは、水の杯を持ったまま、口元を緩めた。


「何がおかしい」


 カミラが低い声で訊く。


「いや。教師が増えたと思っただけだ」


「あんたもだ」


「俺は、自覚がある」


「自覚だけで、傷は塞がらない」


 コンラートが言った。


 アーデルハイトが、そっと目を伏せる。


 今度こそ、笑いを隠していた。



 ◇



 食事を終え、客棟へ戻る廊下では、窓の外から川の音が聞こえていた。


 レオンは、無意識に歩幅を狭くする。


 長く座っていたため、脇腹が少しだけ痛む。


 カミラは何も言わなかった。


 ただ、数歩先へ出たあと、速度を落とす。


 並んで歩ける程度まで。


「帳簿を見るのが、楽しみか」


 レオンが訊いた。


「仕事だ」


「少し、顔が楽になった」


 カミラは、すぐには答えなかった。


 廊下の窓から、谷の灯りを見る。


 河川港。


 倉庫。


 橋。


 細い道。


 働く人間の声。


「追われるだけよりは、よい」


 やがて、言った。


 短い言葉だった。


 だが、レオンには十分だった。


「そうだな」


 二人は、そのまま客棟へ戻った。


 大陸のどこかでは、軽い銀貨が流れ始めている。


 海の向こうからは、シーロ共和国の船が近づいている。


 イタリカが、カミラの行方をいつまで見失っているのかも分からない。


 平穏が永遠に続くとは、誰も思っていない。


 それでも、今夜だけは、傷を休めてよい。


 レオンは、谷を流れる水の音を聞きながら、そう思った。



 ──第六十部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ