第六十部 王子殿は、道中で何を見てきたのかという話 ② 小さな食事の部屋と、コンラート
食事の部屋は、想像していたより小さかった。
大広間ではない。
磨かれた木製の卓。
暖炉。
壁へ掛けられた大きな地図。
窓際へ積まれた数冊の帳面。
川魚の香草焼き、山羊肉と根菜の煮込み、黒パン、薄い葡萄酒。
客人を迎える食事として十分に整っているが、威厳を見せるための無駄はない。
卓の奥に、一人の男が座っていた。
黒に近い灰色の髪には、こめかみから銀色が混じっている。短く整えた顎髭と、風雪へ晒された肌。若い頃より痩せたのだろうが、肩幅は広く、座っているだけでも背筋は崩れない。
服装は質素だった。
深い緑色の上着。
袖口には、丁寧に繕われた跡がある。
装飾品は、辺境伯家の印章指輪だけ。
書類を扱っていたのか、指先には薄いインク染みが残っている。
男は立ち上がった。
左脚へ、ほんのわずかな不自由がある。
注意して見なければ分からない程度だが、一歩目だけ重心が遅れる。
青灰色の目は、レオンとカミラの顔だけを見なかった。
歩き方。
包帯。
靴。
右手。
室内へ入った時の距離。
戸口で、どちらが先に周囲を確かめたか。
見ている。
ただし、見ていることを誇示しない。
「コンラート・フォン・アルムロイトだ」
男は言った。
「遠いところを、よく来られた」
「レオン・ヴァン・リュカリオンです」
レオンが名乗る。
「カミラ・パヴェルだ」
カミラも続けた。
「イタリカの監察官として扱うべきか、元監察官として扱うべきかは、まだ決まっていない」
「自分でも分からないか」
コンラートが訊く。
「イタリカが、私をどう扱うつもりかによる」
「では、ここではカミラ・パヴェルとして迎える」
コンラートは、すぐに答えた。
「肩書は、必要になった時に考えればよい」
カミラの目が、わずかに動く。
肩書を軽く扱ったのではない。
決められないものを、勝手に決めなかった。
それだけだった。
卓の横には、アーデルハイトが立っている。
市場で見た時と同じく、濃い栗色の髪を後ろでまとめていた。父親と並ぶと、青灰色の目がよく似ている。
「昨日は、市場でありがとうございました」
アーデルハイトが言う。
「礼を言われるほどのことはしていない」
レオンが答える。
「菓子は買っていましたが」
「市場調査に必要だった」
「そういうことにしておきます」
コンラートが、娘へ目を向けた。
「菓子」
「最初に見つけました」
「ヴァルターから聞いていた通りか」
「何と書かれていた」
レオンが訊く。
「扱いに困る男を送る、と」
「説明が雑だな」
「かなり正確です」
アーデルハイトが言う。
カミラも否定しない。
レオンは、自分だけが不利な席へ招かれたような気がした。
◇
食事が始まった。
レオンの杯へ注がれたのは、水だった。
卓の向こうには、薄い葡萄酒がある。
傷へ響くほど強い酒には見えない。
「少しくらいなら、問題ないと思う」
レオンが言うと、コンラートは黒パンをちぎりながら答えた。
「医師が決める」
「客人の希望は」
「医師の判断より軽い」
「秤へ載せた結果?」
「載せるまでもない」
即答だった。
カミラが、葡萄酒の杯へ口を付けながら、ほんの少しだけ目を細める。
「そちらだけ、楽しそうだな」
「気のせいだ」
「口元が」
「食事をしろ」
今夜は、これ以上の抵抗を試みても勝ち目がないらしい。
レオンは、水の杯を持ち上げた。
「では、本題へ入ろう」
コンラートが言った。
声を荒げたわけではない。
ただ、食卓の空気が自然に整う。
「道中で見たものを、三つ」
来た。
レオンは、根菜を一つ口へ運び、ゆっくり噛んだ。
橋。
待機所。
秤。
市場。
銀貨。
シーロの荷箱。
灰岩関。
水位柱。
三つに絞る。
それ自体が、問いの一部なのだろう。
「一つ目は、橋を閉じたのが兵士でも貴族でもなかったことだ」
レオンは言った。
「河橋管理人へ判断を任せていた。川が荒れている時、辺境伯の許可を待っていたら、橋は落ちる。だが、管理人が好き勝手に閉じられるわけでもない。水位、荷重、通過数、時刻を記録していた」
コンラートは、何も言わない。
先を促すように、わずかに顎を引く。
「二つ目は、橋を閉じたあと、待つ場所があったことだ」
「なぜ、それを選んだ」
「道を閉じても、商人も旅人も馬も消えない。待つ場所がなければ、次は無理に渡ろうとする。守らせたいなら、守れる形を用意する必要がある」
アーデルハイトの口元が、ほんの少しだけ緩む。
市場で話した時より、言葉が整理されている。
「三つ目は、市場の秤だ」
レオンは続けた。
「役所の奥ではなく、広場の真ん中にあった。売る側だけが重さを知っていても、買う側は信用しない。買う側が疑うだけでも、商売は止まる。誰でも見える場所へ置き、揉めた時には、同じ秤、同じ重りで量り直す。正しいだけでは足りない。正しいと分かる形にしている」
暖炉の中で、薪が小さく鳴った。
窓の外では、川の音が続いている。
コンラートは黒パンをちぎり、少しだけ考えた。
「銀貨は、数えなかったか」
レオンは、水の杯へ指を添えた。
「忘れてはいない」
「では、なぜ三つへ入れない」
「まだ、答えがないからだ」
レオンは答えた。
「軽い銀貨が出た。それ自体は見た。だが、削られたのか、最初から質が違うのか、どこから来たのか、誰が混ぜたのかは分からない。俺が見たのは、異常そのものより、異常が出た時に、市場を全部止めず、疑わしい銀貨だけを分けて記録したことだ」
コンラートの青灰色の目が、わずかに細くなる。
「悪くない」
「褒められた?」
「まだ、入口だ」
「厳しいな」
「優しくする理由があるか」
「傷病人への配慮」
「医師へ任せている」
「役割分担が徹底している」
「一人で全部やろうとする領主から、国は壊れる」
コンラートは言った。
「医療は医師へ。橋は管理人へ。市場の秤は市場監督所へ。渡すべき場所へ権限を渡し、あとで確かめる。それが、私の仕事だ」
青灰色の目が、レオンをまっすぐ見る。
「お前は、泥を知っているようだ」
レオンは黙った。
「兵士の腹。荷車の軋み。歩けなくなる前の馬。足へ豆を作った人間の顔。そういうものは、見えている」
コンラートは、卓の横へ掛けられた地図へ一度だけ視線を移した。
「だが、泥の上へ道を引く方法は、まだ知らん」
侮辱ではなかった。
慰めでもない。
見抜かれた。
そう感じた。
十八歳で出征した頃、自分は兵を率いるために必要なことを知っているつもりだった。階級、陣形、地形、補給。王宮で教えられた基礎は、確かに身に付いていた。
だが、複数の道を残すこと。
止める権限を、誰へ渡すのか。
商人が待てる場所まで作ること。
兵士へ届くパンの前に、橋、市場、倉庫、秤があること。
その全体を考える前に、レオンの王子としての時間は途切れた。
「教える気か」
レオンが訊く。
「学ぶ気はあるのか」
コンラートが返す。
「少しくらいは」
「少しでは足りん」
「教師が面倒そうだ」
「生徒もな」
アーデルハイトが、静かに息を吐いた。
「父上は、人間同士の会話まで試験にします」
「試してはいない」
コンラートが言う。
「観察している」
「言い換えただけです」
レオンは、アーデルハイトへ目を向けた。
「娘さんとは、話が合いそうだ」
「余計なところで意気投合するな」
カミラが言った。
──第六十部 了




