第六十部 王子殿は、道中で何を見てきたのかという話 ① 辺境伯府の谷と、医師の引き渡し
市場を歩いた翌日の午後、レオンとカミラを乗せた荷車は、川に沿って南へ進み、アルムロイト辺境伯府の置かれた谷へ入った。
灰岩関を越えた直後に見た山道よりは、わずかに開けている。ただし、帝国北方の街道とは比べられない。切り立った岩壁と、雪解け水を集めた河川の間へ、石を積んで作った道が細く伸びている。対向する荷車が来れば、どちらかが待避所へ入り、先に通すべき荷物を確かめてから道を譲らなければならない。
鉱石を積んだ荷車。
港から運ばれてきた塩樽。
山羊乳を入れた桶。
河川港へ下ろすための木材。
それぞれの荷台には木札が付けられ、採掘地、積載量、搬入先、通過した関所が記されている。文字だけではなく、色の付いた印も添えられていた。字を読めない荷運び人でも、鉱石、穀物、薬、塩の違いを見誤らないためだろう。
川の向こうには、斜面を削って作られた段状の畑が見えた。春先のため、土はまだ黒く湿っている。雪の残る山肌へ目を上げれば、針葉樹の間に白灰色の岩が露出し、その下では、水路を利用した水車が一定の速度で回っていた。
何もせずに豊かになれる土地ではない。
人が住める場所も、畑にできる場所も、荷車を通せる道も限られている。だからこそ、使えるものを数え、壊さず、明日も使える形で残す。
レオンは、荷台の縁へ片手を置き、道の先を見た。
「昨日から、ずっと楽しそうだな」
隣へ座るカミラが言った。
灰色の外套の下には、まだ包帯が残っている。右手の甲から手首へかけて巻かれた布も、新しいものへ交換されていた。
「そう見えるか」
「見える」
「知らない土地を見るのは、悪くない」
「市場では、菓子屋も念入りに見ていたな」
「あれも土地の文化だ」
「麦袋より先に見ていた」
「人間は、麦だけで生きているわけではない」
「菓子だけでも生きられない」
「その結論を出すには、検証が足りない」
カミラは、わずかに息を吐いた。
呆れている。
ただし、完全に不機嫌なわけではない。
市場で買った蜂蜜菓子を半分ずつ食べたあとから、少しだけ表情が柔らかくなっている。本人は認めないだろうが、甘味には一定の効果があったらしい。
レオンは、それ以上追及しなかった。
以前よりも、引き際を覚えた。
命を守るためである。
荷車が緩やかな曲がり角を越えると、谷の奥に石造りの建物群が現れた。
「城ではないな」
レオンは言った。
アルムロイト辺境伯府は、最も高い丘の上には建てられていなかった。
見下ろすための城でもない。
川が二つに分かれ、三本の街道が交わる場所の少し手前。河川港、倉庫群、街道、橋のすべてへ目を届かせられる位置に、低い石壁と複数の建物を連ねるように築かれている。
中央にある古い館だけを見れば、領主の邸宅らしい。
だが、その左右には、役人が出入りする執務棟、交易記録を保管する文書庫、物資を一時的に置く石造倉庫、医務室、厩舎が続いていた。門前では、商人、山岳兵、役人、河川管理人、荷運び人が絶えず行き交っている。
豪華さよりも、使いやすさを優先している。
「大きな宿駅に見える」
レオンが言うと、カミラは建物の配置を確かめながら答えた。
「扱うものが、宿駅より多い」
「領主の館なら、もう少し夢があってもよいと思う」
「何を期待していた」
「高い塔。広い城壁。金色の装飾。歓迎の美女」
「最後だけ、お前の願望だろう」
「夢とは、願望から生まれる」
「黙っていろ」
カミラの口元が、ほんの少しだけ動いた。
荷車は、館の正面へ回らなかった。
脇にある石畳の通路へ入り、医務室に近い客棟の前で止まる。
合理的である。
非常に。
ただし、歓迎されているという実感は、あまりない。
◇
客室へ入る前に、二人は医師へ引き渡された。
レオンの傷は、悪化してはいなかった。だからといって、自由に歩き回ってよいという意味ではないらしい。脇腹の包帯を巻き直した年配の医師は、傷口を確かめながら、坂道、長時間の歩行、飲酒、重い荷物、無用な人助けを禁止した。
「人助けまで禁止されるのか」
レオンが訊く。
「あなたの場合は、禁止します」
「困っている人間がいたら」
「周囲を呼んでください」
「間に合わなければ」
「その時に考えます。最初から、自分で全部やろうとしないでください」
医師は、次にカミラの右手を診た。
「監察官殿も同じです」
「私は、無茶をしていない」
「昨日、橋へ流木が当たった時、荷車から降りようとしたと聞いています」
カミラが黙る。
レオンは横を向き、笑いを隠そうとした。
「何がおかしい」
「仲間が増えたようで、心強い」
「一緒にするな」
「怪我人が、自分だけは違うと言うところまで似ています」
医師は淡々と言い、カミラの包帯を結び直した。
二人とも、返す言葉がない。
「夕食まで休んでください。館内を見て回るのも、明日以降です」
レオンは一度だけ口を開きかけたが、医師の目を見てやめた。
アルムロイトでは、橋を閉じる判断も、怪我人を寝台へ戻す判断も早い。
止めるべき時に止める。
この土地の共通した気質なのかもしれない。
◇
レオンは、自分で思っていた以上に疲れていたらしい。
寝台へ横になり、少しだけ目を閉じたつもりが、次に気づいた時には、窓の外へ差し込む光が橙色へ変わっていた。谷へ落ちた山の影は、河川港の手前まで伸びている。
机の上には、新しい外衣が置かれていた。
白鷹門で火と泥を被った衣服では、辺境伯との食事へ出しにくいと判断されたのだろう。濃紺の上着は華美ではないが、布地は丈夫で、脇腹の傷を圧迫しないよう少し余裕を持たせてある。
戸を叩く音がした。
「起きているか」
カミラの声だった。
「起きている」
「返事が遅い」
「寝起きの人間へ厳しい」
「夕食へ遅れる方が悪い」
レオンは上着へ袖を通し、戸を開けた。
廊下へ立っていたカミラも、旅装から着替えていた。
軍服ではない。
深い灰色の上着と、動きやすい黒の長衣。装飾はほとんどなく、右手の包帯も隠していない。髪を梳き、首の後ろで丁寧にまとめ直しただけだが、泥、血、煙に汚れた外套を脱いだことで、印象は大きく変わっていた。
細い輪郭。
灰色の目。
長い首筋。
年齢より若く見える顔立ちの奥に、奴隷、革命、戦場、監察を潜り抜けてきた女の静かな重みがある。
レオンは、少しだけ見すぎた。
「何だ」
カミラが訊く。
「いや」
「何だ」
「似合っていると思った」
カミラの表情が、ほんの一瞬だけ止まる。
それから、視線が廊下の先へ逸れた。
「そうか」
返答は、それだけだった。
耳の先が、少しだけ赤い。
レオンは、余計な言葉を足さなかった。
ここで調子へ乗れば、夕食前に廊下で倒れる可能性がある。
生存本能も、学習の一つである。
「行くぞ」
カミラが先へ歩き出す。
数歩進んだあと、歩調が少しだけ遅くなった。
レオンの脇腹へ響かない速さに合わせている。
本人は、何も言わない。
レオンも、何も言わなかった。
──第六十部 了




