第五部 獣医ハンナと、まっすぐ死ぬ場所の話 ④ 〜鋸の音〜
事故が起きたのは、俺たちがカステリオに着いて八日目の朝だった。
夜警の交代時刻。
俺とリューリックは、傭兵宿の外で朝の空気を吸っていた。
空は薄い灰色。
雲が低く、長く伸びている。
風は北からだった。
風の中に、いつもより硫黄の匂いが強い。
硫黄の匂いは、地下から立ち上がってくる空気の匂いだった。
突然、地面が震えた。
低く、長く、続く震え。
地震ではない。
震えには方向があった。
足の下から、北の鉱山の方角へ、まっすぐ抜けていった。
地震は、たいてい方向を持たない。
方向を持っている震えは、人為的な出どころを持っている。
鉱山の方角から、煙が立ち昇った。
「殿下」
「落盤だ」
「行きますか」
「行く」
俺たちは走った。
走りながら、リューリックが言う。
「殿下、お肩は」
「無視する」
「左様で」
「お前、いつから聞いたあと『左様で』としか言わなくなった」
「殿下がお決めになった瞬間、家令の家系の副業の本義として、議論は無駄でございます」
「俺が決める瞬間の判断、間違ってないか」
「いつも半分は間違っております」
「半分か」
「もう半分は、家令の家系の副業の本義として補正の対象でございます」
「お前の補正の射程、どこまでだ」
「殿下が地面に倒れるぎりぎり手前まででございます」
「ぎりぎりすぎる」
「家令の本義は、ぎりぎりまでしか伸びません」
息が切れた。
議論するより、走る方が早かった。
◇
鉱山の入口に着いた時には、すでに坑夫たちが外に群がっていた。
煙が奥から流れ出ている。
煙の色は白に近い。
火ではない。
地下のガスか、湿った支柱の熱か、その両方だ。
完全な火事ではない。
ただし、ガスが長く出続けると、奥にいる坑夫の肺が先に止まる。
監督官の一人が人数を数えていた。
「中に、まだ五人いる」
「生きてるか」
「分からない」
「救出隊は」
「動物が要る。ラバを引いてこい。荷車も要る」
俺はハンナの納屋に走った。
ハンナは、もう納屋の前でラバを引いていた。
彼女の動きは、煙が見えるより半時間早かった。
「来たな」
「事故、聞いたか」
「煙が見えた。いや、それより、今朝からラバが騒いでた」
「動物が知ってたのか」
「動物は、危ない場所に行きたがらない」
「……」
「動物は、まっすぐ危険を察する。回り道をしない」
ハンナは、ラバを二頭、俺に預けた。
「あんた、押さえる役は慣れたろ。荷車を引く」
「了解」
「リューリックさんはどこ」
「鉱山の入口で待ってる」
「彼にも馬を預ける」
ハンナは革袋を肩にかけた。
革袋の中身は、いつもの道具に加えて、骨切り鋸がもう一つ増えていた。
増えているということは、彼女は今日、骨を切ることになるともう判断していた。
その判断は、たいてい外れない。
長年の観察の結果だった。
◇
坑道の中は暗かった。
ランプの光が、湿った岩壁に揺れている。
湿っているということは、地下水が滲み出している。
地下水が滲みる場所では、支柱の木も湿り、強度が落ちる。
強度の落ちた支柱の上に、岩の重みが長く乗っていた。
その重みが、ある朝、限界を超えた。
限界を超える前に、誰かが警告を出したはずだった。
警告を誰が出していたかは、まだ分からない。
ただ、警告を無視した側については、もう町の中で当たりがついている。
嫌な情報の棚に、新しい項目が増えた。
「こっちだ!」
奥から呻き声が聞こえた。
俺たちは煙の中を進んだ。
ハンナが持ってきた湿った布で口を覆う。
湿った布は、煙の粒を半分ほど受け止める。
布を絞れば、灰色の水が出るだろう。
それを見て初めて、人間は「これを肺に入れずに済んだ」と理解する。
崩れた岩が、坑道を半分塞いでいた。
その奥に、五人の坑夫が横たわっている。
二人は息が止まっていた。
一人は、足が岩に挟まれていた。
太腿の中ほどから下が、大きな岩の下敷きになっている。
岩は、二人がかりでも動かない大きさだった。
動かすには、てこと時間が要る。
てこも時間も、いま、この煙の中にはない。
二人は軽傷だった。
救出隊員が彼らを戸口へ運ぶ。
残ったのは、足が挟まれた男。
ハンナがしゃがんだ。
死者二人の首筋に指を当てる。
二秒ずつ。
二秒で、彼女は二人の死を確定させた。
確定させた目に、感情の色はない。
ないが、奥の方に、ほんの一拍だけ、別の何かが走った。
走った何かを、彼女はすぐ押し戻した。
「この男、足を切る」
「切る?」
「岩を動かしてる時間がない。煙が増えてる。足を切って運び出す」
「……」
「あんた、押さえろ。革袋の鋸を出せ」
俺は革袋から骨切り鋸を出した。
刃は想像より薄い。
薄い方が、切る時間が短く済む。
ハンナの道具は、戦場の軍医の道具より、人間の側に優しい設計をしていることが多い。
彼女は男の足首の少し上を、革紐で強く縛った。
何回巻き、どの位置、どの張りで止血するか。
すべて計算済みの動きだった。
計算済みの動きは、状況の音を減らす。
煙の音。
地下水が滴る音。
男の呼吸。
それだけが坑道の中に残った。
ハンナは低く呟いた。
「動物より、人間の方がめんどくさいんだよな」
そして、鋸を骨に当てた。
「動物は、ここまでまっすぐじゃない骨は切らない。動物の骨は、別の道具でまっすぐ切る」
「……」
「人間の骨をまっすぐ切るのは、思ったよりめんどくさい」
ハンナの呟きは、男を慰めるためでも、自分を奮い立たせるためでもない。
現実を、自分の口でひとつずつ確認しているだけだった。
俺は男の肩を両手で押さえた。
男は、意識が半分なかった。
それでも、鋸が骨に当たった時、彼は叫んだ。
叫びは長く続かなかった。
長く続いたら、肺が煙でもたない。
ハンナは、その叫びの長さも計算に入れていた。
最短のリズムで、鋸を引く。
男の体が、俺の両手の中で跳ねる。
跳ねるたび、肩を押し返す。
押し返す力は、ラバを押さえた時の二倍は要った。
ラバの体重は、人間より重い。
ただし、ラバは文句を言わない。
人間は、最後の最後まで文句を言う。
どれくらいの時間だったのか分からない。
俺には、二十秒にも、一時間にも感じた。
最後の一引きで、骨が、ぱきっ、と別の音になった。
ハンナが傷口を布で押さえる。
「運べ」
俺と救出隊員が男を抱えた。
外へ運び出した。
◇
外で、リューリックが馬車の荷台を用意していた。
男を寝かせる。
ハンナが、すぐに傷口を縫った。
坑道の中の骨切りの手とは別人のように、縫合の手は丁寧だった。
別人ではない。
同じ手だ。
切る手と縫う手を、ひとつの手の中で切り替えている。
俺はそこに、ヴェラとは別の、しかし似たものを見た。
「助かるか」
「分からない。出血が多い。だが、生きてる」
最終的に、生き残ったのは三人。
うち、足を切った男は、夕方にもまだ息をしていた。
死者、二人。
煙に巻かれて、息が止まっていた。
ハンナは二人の遺体を納屋に運ばせた。
「鉱山の遺体を納屋に置くのは、いつまで経っても慣れない」
「動物用じゃないだろ」
「動物の方が、ここでは丁寧に扱われる」
「人民の鉱山では」
「人民の鉱山では、動物が人間よりましな扱いを受けてる」
「皮肉だな」
「皮肉じゃない。観察結果だ」
「あんた、今日、何回、観察結果で皮肉を逃げる気だ」
「逃げてない。本当に観察結果だ」
「……」
「皮肉は結論を持っている。観察結果は結論を持たない。私はまだ、結論を持つ段階に行ってない」
「いつ、結論を持つ」
「持たない方が、長く納屋を続けられる」
ハンナはそれだけ言うと、ラバの脇にしゃがんだ。
手は、また最短の動きに戻っていた。
最短の手の動きは、感情を保管する場所としていちばん安全だった。
彼女は、保管しているものをここで出さない。
出すべき相手が、いま、目の前にいないからだった。
目の前にいない相手は、たぶん、十年前の彼女の息子だった。




