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第五部 獣医ハンナと、まっすぐ死ぬ場所の話 ③ 〜洗殿下補助〜

 数日が過ぎた。


 昼は寝て、夜は警備。


 時々、坑夫の喧嘩仲裁。


 坑夫の喧嘩は、力任せで分かりやすい。


 片方が酒を飲み、片方が配給の黒パンの取り分で怒り、三人目が止めるふりをして一発殴り、四人目が「じゃあ俺も」と言って加わる。


 あとは椅子が飛び、罵声が飛び、誰かの鼻血が飛ぶ。


 喧嘩の大半は、リューリックがひと言で止めた。


「明日の坑道に、片目で入る覚悟がおありなら続けてください」


 だいたい止まった。


 坑道で片目を失う恐怖は、酒の勢いより強い。


 傭兵宿の連中は、数日でリューリックに妙な敬意を覚えた。


 昼間、俺はハンナの納屋によく通った。


 動物の世話を手伝う。


 ラバの脚を押さえる。


 馬の蹄を磨く。


 犬に餌をやる。


 鳥は、止まり木の上で相変わらず片足で立っていた。


「あれ、なんで片足なんだ」


「もう片方がない。五年前、罠でなくした」


「……飛べるのか」


「少しだけ」


「問題はないのか」


「動物は、ないものを嘆かない」


 ハンナはそれだけ言った。


 俺は、止まり木の鳥をしばらく見た。


 鳥は首を傾げて、こちらを見返した。


 目には何の表情もなかった。


 ないものを嘆かない目だった。


 その目は、俺の懐の重みを責めていない。


 責めていないのに、こちらが勝手に責められた気がした。


 勝手に責められた気がするのは、人間の悪い癖だった。



 ◇



 ある昼、納屋で小さな騒ぎが起きた。


 牝馬が腹を壊して運び込まれた。


 監督官の家で飼われていた、まだ若い馬だった。


 気性が荒い。


 足も速い。


 だが、腹を壊した馬は怖い。


 立ったまま暴れるからだ。


「レオン、首。リューリックさん、後ろ脚」


「俺、今日も押さえる役か」


「あんた、押さえる顔してる」


「顔で役割を決めるのやめてくれ」


「獣医は顔で決める」


 俺は馬の首を押さえた。


 リューリックが後ろ脚の位置を取る。


 ハンナは馬の腹の下に身をかがめ、指で腹部を押した。


 馬が大きく身じろぎした。


 桶が倒れた。


 薬湯が床に広がる。


「動くな!」


 ハンナが叫んだ。


 馬に向けたのか、俺に向けたのか、たぶん両方だった。


 次の瞬間、牝馬が前脚を跳ねた。


 俺は咄嗟に首を抱え込んだ。


 ハンナが腹の下から抜け、俺の背中を思い切り押した。


 俺は床に滑った。


 顔から藁の山に突っ込んだ。


 さらに、棚から落ちた湿布用の練り薬が、俺の頭にべしゃりと落ちた。


 冷たい。


 臭い。


 薬草と油と、獣のための軟膏が混ざった、すさまじい匂いだった。


「……」


「……」


 納屋の中が、数秒だけ静かになった。


 犬が、俺の顔を舐めた。


 鳥が、片足で跳ねた。


 牝馬が、ぶるる、と鼻を鳴らした。


 ハンナが俺を見下ろしていた。


 その顔が、みるみる崩れた。


「は」


「笑うな」


「はは」


「笑うなと言った」


「ははははははっ!」


 ハンナは、納屋の梁が揺れるほど笑った。


 腹を抱え、膝を叩き、最後には壁に手をついて笑っていた。


「あんた、見事だね! 馬より派手に転がる傭兵なんて、初めて見たよ!」


「俺は助けたんだ!」


「助けた。助けたさ。牝馬は無傷、あんたは薬まみれ。最高の交換条件だ」


「最高じゃない」


「顔が緑だよ、レオン」


「俺の顔は元からこういう色じゃない」


「分かってる。だから面白いんだ」


 リューリックが、牝馬の後ろ脚を押さえたまま、完璧な無表情で言った。


「殿下」


「今、俺を呼ぶな」


「状況確認です」


「するな」


「牝馬は落ち着きました」


「俺は落ち着いてない」


「左様で」


「左様で、じゃない」


 ハンナは笑いながら、俺の頭に水をかけた。


 水は冷たかった。


 練り薬が額から鼻へ垂れた。


 犬がまた舐めようとして、ハンナに首根っこをつかまれた。


「食べるんじゃない。傭兵は腹に悪い」


「俺は犬の餌じゃない」


「人間の薬にもならないね」


「ひどい」


「でも、押さえる役にはなる」


 ハンナはそう言って、俺の頭を雑に拭いた。


 雑だったが、不思議と痛くなかった。


 母親が子供の泥を落とすような手だった。


 その手つきが、笑いの中で一瞬だけ、ひどく寂しく見えた。


 俺は、それ以上ふざけなかった。


 ハンナも、それに気づいたのか、最後に俺の頭を一度だけぽんと叩いた。


「よし。人間一匹、洗浄完了」


「一匹扱いか」


「あんたは、だいたい大型犬みたいなもんだ」


「王族だった時期もあるんだが」


「大型犬にも血統書はある」


「お前ら、全員ひどいな」


 リューリックが静かに締めた。


「殿下、家令の家系の副業の本義として、本日は洗犬補助に分類しておきます」


「分類するな」


「では、洗殿下補助」


「もっと悪い!」


 ハンナがまた笑った。


 その笑いは明るかった。


 ただし、その明るさは、十年前の喪失を忘れた明るさではなかった。


 喪失を抱えたまま、納屋の中で生き物を笑わせ続けてきた人間の明るさだった。



 ◇



 その夜、傭兵宿に戻ると、リューリックが低く言った。


「殿下」


「何だ」


「本日の獣医療補助について」


「続けるな」


「一点だけ」


「続けるなと言った」


「ハンナ姐さんは、強い方です」


「……急に真面目にするな」


「はい。あの方は、悲しみを笑いに変える手順を知っておられる」


「……」


「人を笑わせる方は、たいてい、笑えなかった時間を長く持っておられます」


「お前、そこまで見てたのか」


「家令の家系の副業の本義として、現場確認は」


「言うな」


「左様で」


 リューリックは、それ以上からかわなかった。


 それが、逆に沁みた。


 ハンナは、マレーナのように夜の熱に沈む女ではない。


 ヴェラのように選んで捕食する女でもない。


 ただ、転んだ人間を笑い、拭き、傷を診て、翌日にはラバの腱を見る。


 それは、別の種類の女の強さだった。


 俺は、それを少し好きになった。


 惚れた、と言うには違う。


 頭を下げたくなる種類の好きだった。


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