第五十九部 市場では、値札より先に見るものがある話 ④ 値札より先に見るものと、菓子屋
市場を一周したあと、レオンは、約束どおり菓子屋へ寄った。
一つだけ。
ベルク監督官が、最初にそう言った。
医師も、菓子そのものは禁止していない。
したがって、蜂蜜と木の実を使った焼き菓子を一つ買うことは、治療方針にも、保護拘束にも、辺境伯から課された観察にも反しない。
完璧な理屈だった。
「二つください」
レオンが言うと、店番の老女が焼き菓子を二つ包んだ。
隣に立つカミラが、こちらを見る。
「一つだろう」
「一つは俺の分」
「もう一つは」
「同行者への配慮」
レオンは、包みの片方を差し出した。
「傷口の管理を担当している監察官へ、正当な対価を支払う」
「賄賂か」
「感謝だ」
カミラは、包みを見た。
蜂蜜の甘い匂い。
砕いた木の実。
少し焦げた生地の端。
すぐには受け取らない。
「一つしか食べてはいけないと言われたのは、あんただ」
「俺は一つしか食べない」
「私へ渡したものを、あとで半分要求する気だろう」
レオンは、少しだけ黙った。
カミラは、じっとこちらを見る。
「要求する気だったな」
「交渉の可能性は、残しておくべきだと思った」
「完成度の低い計画だ」
「長期的な信頼関係を前提にしている」
「都合のいい言葉を覚えたな」
カミラは、ようやく包みを受け取った。
それから、焼き菓子を半分に割る。
片方を、レオンへ戻す。
「半分だけだ」
レオンは、手の中へ戻ってきた菓子を見た。
蜂蜜。
木の実。
焼き色。
カミラの指先。
市場で学んだことは多い。
橋。
秤。
待機所。
海路。
銀貨。
そして、正面から要求するより、差し出した方が戻ってくるものもある。
「学びが深い」
「菓子を食べる時まで、統治の話をするな」
カミラは言いながら、自分の分を一口だけ食べた。
表情は変わらない。
ただし、ほんの少しだけ目が細くなる。
「甘い?」
「普通だ」
「気に入った?」
「普通だ」
「もう一つ買う?」
「医師へ訊け」
レオンは笑った。
カミラも、否定しながら、もう一口食べる。
少し離れた場所では、アーデルハイトが秤場の役人と話していた。
軽い銀貨は、別の布へ包まれ、記録と共に市場監督所へ運ばれていく。
シーロの印が入った木箱も、いくつか開けられた。
大きな異変ではない。
少なくとも、まだ。
市場は動いている。
黒パンも売られ、塩も量られ、魚油も運ばれていく。
ただし、秤の片側には、昨日までより少しだけ軽い銀貨が載っていた。
レオンは、蜂蜜の甘さを舌へ残したまま、そのことを覚えておく。
剣でもない。
人名でもない。
辺境伯へ話すべきものが、また一つ増えた。
──第五十九部 了




