第五十九部 市場では、値札より先に見るものがある話 ③ アーデルハイトと、市場の案内
銀貨の確認が一段落すると、濃い栗色の髪の女は、秤場の役人へ帳面を渡し、レオンたちの方へ歩いてきた。
間近で見ると、顔立ちは整っている。
母親似なのだろうか。
青灰色の目は柔らかいが、視線の置き方はベルク監督官やカミラと似ていた。相手の顔だけではなく、靴、袖口、荷物、歩き方まで自然に見ている。
レオンの脇腹へ巻かれた包帯。
カミラの右手。
護衛の間隔。
ベルク監督官の持つ書類。
順番に確かめる。
「市場へようこそ」
女は言った。
「歓迎されているのか、観察されているのか、判断に迷う」
レオンが答えると、女はわずかに笑った。
「両方です」
「正直だ」
「隠す必要がありますか」
「人によっては」
「父は、隠すより、相手がどこまで気づくかを見る方を好みます」
レオンは、少しだけ目を細めた。
「父?」
ベルク監督官が、一歩だけ前へ出る。
「アーデルハイト様」
呼ばれた女は、特に気負うことなく頷いた。
「ご案内、ありがとうございます。ベルク監督官」
レオンは、もう一度、女を見る。
質の良い靴。
帳面。
市場の役人が自然に従う声。
役人でも、商人でもない。
「辺境伯の娘か」
「アーデルハイト・フォン・アルムロイトと申します」
女は、正式に名乗った。
「父から、道中で見たものを三つ覚えてくるよう、言われたそうですね」
「伝わるのが早い」
「この領内では、道、橋、宿駅、市場の記録がつながっています。昨日の橋の件も、今朝には届いていました」
「橋を見たことまで?」
「橋だけではありません」
アーデルハイトの目に、少しだけ笑いが浮かぶ。
「荷車の積み荷が偏っていることへ気づいた。外套を座面へ敷いてもらった。菓子屋へ寄ろうとして止められた」
レオンは、ベルク監督官を見る。
「最後の報告は、統治に必要か」
「市場の観察としては、不自然な動きでしたので」
監督官は真面目に答えた。
「アルムロイトの記録は、細かすぎないか」
「細かいから、生き残れる」
カミラが言った。
アーデルハイトは、カミラへ顔を向ける。
「カミラ・パヴェル監察官ですね」
「元、を付けた方がよいかもしれない」
「父は、役職より、何を見てきたかを気にします」
「それは、助かる」
「私もです」
アーデルハイトは、秤場へ視線を戻した。
「鉱山、倉庫、配給、労働記録を長く見てこられたと聞いています。お疲れでなければ、いずれ帳簿を見ていただきたい」
「客人へ仕事を頼むのか」
レオンが口を挟む。
「嫌なら、断っていただけます」
「カミラが断ると思う?」
アーデルハイトは、少しだけ考えた。
「思いません」
「理解が早い」
「あなたも、似た方を選ぶのですね」
その言葉に、カミラの表情が止まった。
レオンも、一瞬だけ黙る。
アーデルハイトは、二人の顔を交互に見る。
「同行者として、という意味です」
「分かっている」
カミラの返答は、わずかに早かった。
レオンは、胸の中で笑う。
ただし、口には出さない。
学習は、継続している。
「アーデルハイト殿は、市場監督官なのか」
レオンが訊いた。
「いいえ」
「では、なぜ市場へ」
「見るためです」
アーデルハイトは、広場へ視線を向けた。
「父から、毎週、必ず市場、倉庫、橋、宿駅のどれかへ行くよう言われています。次代にこの領地を預かるなら、広間の報告だけを読んではいけない、と」
「父親から、同じ種類の宿題を出されている」
「おそらく、あなたより長く」
「同情する」
「不要です」
「強いな」
「必要なので」
返答は穏やかだった。
だが、譲る気はない。
レオンは、少しだけ口元を緩める。
美人である。
数字に強い。
市場へ自分の足で来る。
しかも、話が早い。
危険な種類の美人だった。
視線を少し長く置きすぎたらしい。
隣で、カミラが何も言わずに咳払いをした。
大きくはない。
だが、十分に聞こえる。
レオンは、すぐに視線を秤へ戻した。
学習とは、実践である。
◇
アーデルハイトは、広場の中央から少し離れた場所へ二人を案内した。
そこには、低い屋根の付いた待機所がある。昨日の橋と同じだった。市場で価格の確認や荷の検査に時間が掛かっても、商人や荷運び人が雨と雪へ晒され続けないよう、腰掛け、水桶、小さな掲示板が置かれている。
「父からの問いへ、答えは決まりましたか」
アーデルハイトが訊いた。
「道中で見たものを、三つ」
「まだ、会ってもいないのに試験を受けている」
「父は、会話まで試験にします」
「娘として、どう思う」
「面倒です」
返答が早い。
レオンは笑った。
「正直だ」
「ただし、役に立たないとは言えません」
アーデルハイトは、待機所の端へ置かれた記録板を指で示した。
「昨日、橋を閉じたあと、待つ場所があった。気づいたそうですね」
「閉じるだけなら、誰でもできる。待つ人間をどうするかまで考えていなければ、次から守られない」
「その通りです」
「辺境伯から、答えを聞いている?」
「いいえ。父は、答えを教えません」
「面倒だな」
「ええ」
アーデルハイトは、今度こそ少し楽しそうに笑った。
「では、三つ目は?」
「一つ目は橋。二つ目は待機所」
「三つ目は」
レオンは、市場を見た。
中央の秤。
掲示板。
シーロの木箱。
銀貨を分ける布。
役所の引換証。
薬草。
黒パン。
菓子。
菓子は重要だ。
だが、父親へ最初に報告すると、話が少し違う方向へ行く可能性が高い。
「秤が、役所の奥ではなく、市場の真ん中にある」
レオンは言った。
「商人だけが見られる場所でもない。買う側も、売る側も、通りがかった人間も見える。揉めた時、誰か一人の言葉だけで決めないためだ」
アーデルハイトは、少しだけ目を細めた。
「三つで足りますか」
「足りない」
レオンは答えた。
「シーロの箱もある。海から入る道も、この国の門だ。それから、銀貨を止めた時、全部の取引を止めなかった。疑いは残すが、市場は動かす」
「それは、私へ言っている?」
「半分は」
「残りは」
「市場に」
アーデルハイトは、少し考えたあと、頷いた。
「父は、喜ぶと思います」
「褒める?」
「試験を増やします」
「喜ばせない方がよかった」
「手遅れです」
カミラは、横で静かに息を吐いた。
「似た者親子だな」
「私まで、父と同じにしないでください」
「違うのか」
「父よりは、答えを言います」
「かなり助かる」
「ただし、正解を言ったとは限りません」
レオンは、少しだけ眉を上げた。
アーデルハイトの青灰色の目には、柔らかな笑いが残っている。
穏やかだが、簡単ではない。
辺境伯の娘。
次代の統治者候補。
なるほど。
「やはり、似ているのでは」
レオンが言うと、アーデルハイトは何も答えなかった。
ただ、否定もしなかった。
──第五十九部 了




