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第五十九部 市場では、値札より先に見るものがある話 ① 川の音の朝と、谷の市場

 灰岩関を越えた先の宿駅で迎えた朝は、川の音から始まった。


 夜の間に水量が増したらしく、石造りの建物の壁越しにも、谷を流れる水が岩へぶつかる低い響きが絶えず伝わってくる。馬小屋では飼葉を運ぶ音がし、廊下の先では役人が掲示板へ新しい水位を書き込み、その横で旅人たちが今日使える道と、まだ閉じられている橋を確かめていた。


 旅人向けの宿でありながら、街道と川を管理する詰所でもある。


 寝起きの悪い男が、もう少し寝台へ残っていたいと考える余地は、ほとんどなかった。


「腕を上げて」


 診療室で、白髪の混ざった女医が言った。


 レオンは椅子へ座ったまま、外衣の前を緩め、言われた通りに腕を上げる。脇腹から肩へ伸びた包帯が外されると、矢傷の周囲にはまだ薄い腫れが残っていた。


 女医は傷口を洗い、新しい布を当てる。


「市場までなら歩いていい。ただし、坂を上りすぎない。走らない。荷物を持たない。人助けを始めない。喧嘩を買わない。酒は飲まない」


「最後の二つは、傷と関係があるか」


「あなたの場合は、ある」


 女医は即答した。


 診療台の反対側では、カミラが右手へ巻かれた布を交換されている。


「監察官殿も同じです。長く歩かない。帳面を抱えて市場を端から端まで回らない。重い荷を持とうとしない。怪我人を見つけても、まず周囲を呼ぶ」


「私は、そこまで無茶をしない」


「昨日、橋へ流木が当たった時、荷車から降りようとしましたね」


 カミラが黙る。


 レオンは横を向き、笑いを隠すふりをした。


「何がおかしい」


「いや。俺だけが不当に警戒されているわけではないと知って、少し安心した」


「安心するところではない」


「二人とも、似た種類の患者です」


 女医は、包帯の端を結びながら言った。


 カミラの眉が、わずかに寄る。


「似ていない」


「俺も、そこまでではないと思う」


「どちらも黙ってください」


 女医は、診療室の戸を指差した。


「市場へ行くなら、朝食を食べてから。戻る時刻は鐘が二度鳴る前。遅れたら、明日は寝台から出しません」


 レオンは立ち上がり、脇腹へ響かないよう慎重に外衣を整えた。


「統治とは、厳しいものだな」


「医療です」


「似たようなものでは」


「違います」


 女医とカミラの声が重なった。


 レオンは、二人へ逆らわないことにした。


 今日は、学ぶ日である。


 少なくとも、表向きは。



 ◇



 宿駅から市場までは、谷に沿った下り坂を半刻ほど進む。


 ベルク監督官が案内へ付き、アルムロイト側の護衛兵が二人、少し距離を空けて後ろを歩いた。監視されているようにも見えるし、守られているようにも見える。


 保護拘束。


 あらためて、便利な言葉だった。


 坂を下るにつれて、家の数が増えていく。石壁へ深い屋根を載せた家々の間を、水路が細く走り、その流れを使って小さな水車が回っている。斜面には段状の畑が刻まれ、まだ寒さの残る土から、早春の野菜が短い葉を覗かせていた。


 市場が近づくと、匂いが変わった。


 焼いた黒パン。


 山羊乳を煮詰めた乳酪。


 干した茸。


 薬草。


 薪。


 魚油。


 塩。


 川魚だけではない。遠く離れた海から運ばれてきた干し魚、海藻、貝を燻した保存食も並んでいる。


 広場の入口には、大きな掲示板が立っていた。


 昨日の川の水位。


 橋の通行制限。


 山道の崩落情報。


 穀物倉庫から市場へ放出される麦の量。


 塩、薪、黒パン、干し魚の参考価格。


 文字の横には、色の付いた線と簡単な絵が添えられている。字を読めない者でも、赤い線が増えれば川へ近づくべきではなく、橋の絵へ斜線が引かれていれば荷車を進められないと分かる。


 カミラは足を止め、掲示板を見上げた。


「価格まで出すのか」


「参考値です」


 ベルク監督官が答えた。


「強制ではありません。ただし、急な値上げが続けば、役所へ記録が上がります」


「誰が記録する」


「市場監督所です。商人、倉庫番、荷運び人、買い手から、別々に聞きます」


「一人の報告だけでは決めない」


「ええ」


 カミラの灰色の目が、少しだけ細くなる。


 好きな種類の仕組みらしい。


 レオンは掲示板から視線を外し、広場へ並ぶ露店を見た。


 山羊肉。


 根菜。


 布。


 工具。


 干し魚。


 薬。


 それから、蜂蜜を塗った焼き菓子。


 焼き色の付いた小さな生地へ、砕いた木の実が散らされている。湯気は立っていないが、朝に焼いたばかりなのだろう。甘い匂いが、春先の冷たい空気の中へ細く流れていた。


 市場を見る。


 統治を学ぶ。


 重要な仕事だ。


 そのためには、まず、菓子の品質を確認する必要がある。


 レオンが一歩だけ進路を変えると、隣を歩いていたカミラが、外套の袖を掴んだ。


「どこへ行く」


「市場の観察」


「目が、菓子しか見ていない」


「価格の変動は、生活へ直結する」


「なら、麦から見ろ」


「麦だけでは、人は生きられない」


「菓子だけでも生きられない」


「試してみなければ分からない」


 カミラは、袖を離さなかった。


 強く引いたわけではない。


 ただ、レオンが甘い匂いへ吸い寄せられるのを、当然のように止める。


 ベルク監督官は、二人のやり取りを見て、少しだけ考えた。


「市場を一周したあとであれば、購入して構いません」


「監督官」


 レオンは、思わず声を低くした。


「話が分かる」


「医師から、菓子は禁止されていません」


「現場判断が優れている」


「ただし、一つです」


「急に厳しくなった」


「山道では、余分な荷を増やしません」


「菓子一つを、荷物として数えるのか」


「あなたの場合は、増える可能性があります」


 昨日までレオンを知らなかったはずの男が、すでに扱いを覚え始めている。


 アルムロイトは、恐ろしい土地だった。



 ──第五十九部 了


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