第五十八部 門が一つではない国の話 ① 木柵と、止められた護送隊
帝国北方街道を離れ、アルムロイト辺境伯領へ向かう道へ入ってから半日ほど進むと、風の匂いが変わった。
乾いた草と土の匂いへ、雪解け水の冷たさが混ざり始める。道の左手では、山間を削るように川が流れていた。冬の終わりにしては水量が多く、青みを帯びた水は岩へぶつかるたびに白く泡立ち、谷の奥から腹へ響くような低い音を運んでくる。
右手の斜面には、黒い針葉樹と白灰色の岩肌が交互に現れていた。
遠くから眺めていた時には一枚の壁にしか見えなかった山々が、近づくにつれて細かな谷と尾根へ分かれていく。人が暮らせそうな平地は、川沿いへ細く残された土地か、斜面を削って作られた段状の畑くらいしかない。
荷車の車輪が石を踏むたび、座面から鈍い振動が伝わった。
レオンは、尻の下へ敷かれた外套の位置を少しだけ確かめる。
カミラが差し込んだものだ。
自分から頼んだわけではない。
正確には、かなり頼んだ。
だが、最後に外套を折って押し込んだのはカミラである。したがって、これはレオンの交渉が成功したのではなく、監察官が傷口の管理に必要だと判断した結果だった。
そこまで整理しておけば、本人から外套の返却を求められる危険は低い。
「何を考えている」
隣で地図を見ていたカミラが訊いた。
「外套の有効性について」
「返せ」
「まだ、何も言っていない」
「顔に出ている」
「監察官は、人の顔を読みすぎる」
「分かりやすいだけだ」
昨日も、似た言葉を交わした。
ただし、同じではない。
以前なら、カミラは本当に外套を引き抜いただろう。今はそう言いながら地図から目を上げず、レオンの座り方が傷へ響いていないかだけを、時折、横目で確かめている。
レオンは、外套のありがたみを黙って受け取ることにした。
学習とは、知識を得ることだけではない。
失わずに済むものを、失わないことでもある。
荷車の前方で、ハインリッヒが右手を上げた。
護送隊の速度が落ちる。
街道の先では、川と山肌の間が急に狭くなり、岩壁へ沿うように石造りの詰所が築かれていた。
城門と呼ぶには、小さい。
だが、簡素でもない。
道へ渡された木柵は二重になっており、その手前には、荷車を一台ずつ寄せるための広場がある。広場の端には、大型の秤、記録机、水位を測る目盛り柱、馬を休ませる水桶、崩落時に道を塞ぐための丸太が、用途ごとに整然と並べられていた。
岩壁の上には見張り台がある。
川の対岸にも、小さな詰所が見えた。
さらに谷が曲がる場所には、低い石壁がもう一つ築かれている。
「門が、三つある」
レオンが言うと、荷車の横を歩いていたクラウゼ曹長が頷いた。
「目に見える範囲では」
「まだあるのか」
「アルムロイトの国境は、壁一本で守れる長さではありません。道、橋、舟着き場、谷、山道、集落。通れる場所を一つずつ押さえるのでしょう」
カミラが地図を畳んだ。
「誰を通すかだけではない。橋へ何台載せるか。荷をどこまで運ばせるか。川を渡らせるか。誰へ案内を付けるか。そうした判断の積み重ねが、門になる」
「国境の話をしているのに、監察官らしい答えだな」
「間違っているか」
「いや」
レオンは、少しだけ口元を緩めた。
「面白い」
◇
木柵の手前で、護送隊は止められた。
帝国軍の徽章を見ても、門番たちはすぐに柵を上げなかった。鎧の意匠は帝国軍より軽く、肩、肘、脛の部分だけを金属で補強し、山道を歩きやすいよう革と厚い布を組み合わせている。長槍を持つ者もいるが、弓を背負った者の方が多い。
兵士の一人が先頭へ出た。
「所属と目的を」
「グランデル帝国北方軍監付、ハインリッヒ・フォン・ホルマン少佐」
ハインリッヒは馬から降り、書類袋へ手を掛けた。
「ヴァルター軍監殿の命により、白鷹門事件に関する重要証人二名を、アルムロイト辺境伯閣下の保護下へ移送する。辺境伯閣下へ宛てた私信と、移送に関する公文書を預かっている」
門番は、差し出された文書を受け取った。
封蝋。
署名。
紙の質。
折り目。
紐の結び方。
一つずつ確かめる。
急がない。
帝国軍の少佐が目の前にいても、焦らない。
やがて、門番は詰所の中へ入り、別の人物を連れて戻った。
五十歳前後の男だった。
鎧ではなく、厚い暗緑色の外套を着ている。腰には短剣があるが、目立つ武装ではない。日に焼けた顔には深い皺があり、右の眉の上へ古い傷が残っていた。
門番たちは、男へ一歩分だけ場所を空ける。
「灰岩関国境監督官、ヨハン・ベルクです」
男は名乗り、ハインリッヒへ視線を向けた。
「帝国北方軍監殿からの先触れは受け取っています。公文書を確認します」
「お願いします」
ハインリッヒが答える。
直属の部下へ命令する時とは違う。
声は固いが、外国の役人へ払うべき敬意を崩していない。
ベルク監督官は公文書へ目を通したあと、封を切られていない私信を確かめた。
「こちらは、辺境伯閣下へ直接?」
「はい。私が預かっています」
「では、封はそのままに。灰岩関では開きません」
「承知しました」
ベルク監督官の視線が、荷車へ移る。
レオン。
カミラ。
順番に見る。
疑う目ではない。
歓迎する目でもない。
誰を、どの名目で、どこまで通すのかを確かめる目だった。
「お二人は、帝国軍の囚人として引き渡されるのですか」
「違います」
ハインリッヒは即答した。
「白鷹門事件の重要証人であり、ヴァルター軍監殿の直轄保護拘束下にあります。帝国内へ留め置くことで生じる政治的混乱と、通常の保安経路へ渡す危険を避けるため、辺境伯閣下へ一時的な受け入れをお願いしています」
ベルク監督官は、少しだけ目を細めた。
「保護拘束」
「両方の意味が必要です」
昨日、クラウゼ曹長が言った言葉と同じだった。
レオンは、荷車の上で小さく息を吐く。
「便利な言葉だ」
カミラが横目で見る。
「不満か」
「保護されながら拘束され、拘束されながら保護される。自由がどこへ行ったのか分からない」
ベルク監督官は、レオンへ顔を向けた。
「あなたが、レオン・ヴァン・リュカリオン殿ですか」
「そうらしい」
「自信がないのですか」
「最近、自分の名前を勝手に使う者が多かった。念のため、慎重になっている」
ベルク監督官の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
ただし、すぐに表情は戻る。
「当領では、あなたを王位請求者として迎えるわけではありません。帝国軍の囚人として扱うわけでもない。辺境伯閣下が事情を確認するまでの間、行動を制限した客人として受け入れます」
「客人」
レオンは言った。
「ただし、勝手には出歩けない」
「ええ」
「馬も借りられない?」
「お貸ししません」
「酒は」
「医師へ確認してください」
「女性のいる宿は」
「医師へ確認してください」
「監督官」
カミラが静かに口を挟んだ。
「最後の質問は、医師の管轄ではない」
「では、却下で」
ベルク監督官は即答した。
レオンは少しだけ顔をしかめる。
「判断が早い」
「山道では、迷っている時間が事故につながります」
ベルク監督官は、門番へ指示を出した。
「帝国側の記録を写せ。武器、薬、荷物、人数、馬の状態を確認する。二名の身元は、公文書の表記どおりに残せ。余計な呼称は使うな」
門番たちが動く。
記録机へ紙が広げられ、秤の錘が確かめられ、馬の脚、荷車の車輪、水樽、保存食、包帯や薬箱まで一つずつ点検される。
レオンは、少しだけ眉を上げた。
「俺たちの確認より、荷車の確認の方が長くないか」
「荷車が壊れれば、山道の途中で全員止まります」
ベルク監督官が答えた。
「名前だけでは、道を進めません」
カミラの灰色の目が、わずかに細くなった。
興味を持ったらしい。
──第五十八部 了




