第五十七部 賞金首と、少佐が大佐を止められる理由を聞く話 ④ 少佐が大佐を止められる理由と、山へ向かう荷車
荷車が再び動き始めると、クラウゼは横へ戻った。
今度は、クラウゼの方から訊いた。
「旧リュカリオンでは、軍監に近い役職はなかったのですか」
「まったく同じものは、なかったと思う」
レオンは、街道の先に見える山並みへ視線を向けた。
「王家直属軍、王宮近衛、地方守備隊。国境に近い地域では、領主の兵もいた。監査の仕組みも、軍務官もいたが、帝国ほど大きな軍を前提に組まれてはいない」
「あなたは、どこまで学んでいたのですか」
レオンは、少しだけ目を細めた。
王宮の講義室。
大きな地図。
盤上へ並べた木片。
父の横で、軍務官が指し示した街道と川。
古参の将官が話した、冬営地の選び方。
若い頃の自分は、理解したつもりで頷いていた。
「基礎は、叩き込まれた。階級も、陣形も、地形も、補給が切れれば兵士が戦えなくなることも知っていた。十八で三百人を預かった以上、知らなかったでは済まない」
レオンは、毛布の端を指で弄びながら続けた。
「だが、父や、王宮で軍務を担っていた古参たちが見ていたものとは違う。複数の部隊をどう噛み合わせるか。補給路を何本残すか。軍務と行政の境界をどこへ置くか。誰へ、どこまで止める権限を渡すか。国境を越える軍を、何か月も食わせるには、港、倉庫、徴税、商人、領主をどう動かすか」
風が、荷車の布を揺らした。
「俺は、そこまで学び切る前に捕まった」
十八歳。
出征。
敗北。
三百人。
帰らなかった者たち。
自分より先に倒れた者。
自分が捕虜となったあと、何が起きたのかも知らないまま死んだ者。
レオンは、一度だけ息を吐く。
「現場は、多少分かる」
言った。
「荷車が壊れそうなら気づく。兵士が腹を減らしている時も、馬が限界へ近い時も、足へ豆を作った兵士が行軍速度を落とし始める前の顔も、以前よりは分かる。奴隷と傭兵を長くやれば、嫌でも覚える」
「それだけではないだろう」
カミラが言った。
レオンは、一度だけ肩を竦めた。
「少なくとも、分からないことが多いとは分かるようになった。十八歳の俺は、それも知らなかった」
カミラは、何も挟まなかった。
慰めもしない。
軽く扱いもしない。
ただ、隣へ座っている。
それでよかった。
「いまから学べばいい」
少し間を置いて、カミラが言った。
レオンは、横を見る。
カミラは、地図へ視線を落としたままだった。
「簡単に言うな」
「簡単ではない」
返答は早い。
「だが、知らないと分かったなら、前よりは進める」
灰色の目は、地図の上にある。
それでも、その言葉は、まっすぐレオンへ届いた。
「教師が厳しそうだ」
「理解の遅い生徒には、必要だ」
「俺を教える気か」
「勝手に置いていくと、また面倒を増やす」
言い方は、相変わらずだった。
ただし、置いていくとは言わなかった。
レオンは、その違いを胸の中だけで受け取った。
◇
夕方が近づくにつれ、山並みは少しずつ大きくなった。
街道は川へ沿って南東へ曲がり、その先で二つに分かれている。一方は低地を通って帝国側の宿駅へ続き、もう一方は、丘陵と河川の間を縫いながら、アルムロイト辺境伯領の北側へ向かう。
分岐点には、小さな詰所があった。
帝国軍の兵士が二人。
商人の荷車が三台。
旅人が数人。
木製の掲示板には、春先の増水、山道の落石、港湾側へ抜ける別路の閉鎖情報が貼られている。
ハインリッヒは馬を降り、詰所の兵士へ書類を見せた。
「ホルマン少佐殿」
兵士は、封書と荷車へ視線を向けながら言った。
「こちらの二名は、どちらへ護送なさいますか」
「アルムロイト辺境伯領だ」
ハインリッヒは答えた。
「ヴァルター軍監殿の私信を届ける。荷車の二名は、白鷹門事件に関する重要証人として、軍監直轄で移送する」
「承知しました」
兵士は姿勢を正し、書類へ確認印を入れた。
荷車の上から見ていたレオンは、少しだけ眉を上げる。
「重要証人」
「賞金首よりは、聞こえがいいだろう」
カミラが言った。
「少しだけ」
「逃げようとするな」
「まだ、何も言っていない」
「顔に出ている」
「監察官は、人の顔を読みすぎる」
「分かりやすいだけだ」
ハインリッヒが書類を受け取るまでの間、レオンは掲示板へ視線を向けた。
増水。
落石。
閉鎖された道。
橋。
山道。
地図の上では一本の線でも、実際には、その日の天候と水量、荷車の重さ、馬の状態、道を知る者の有無で、使えるかどうかが変わる。
「曹長」
「何でしょう」
「帝国軍の徽章は、国境を越えたあとも役に立つのか」
クラウゼは、少しだけ考えた。
「身分の証明にはなります。ただし、命令する権限にはなりません」
「アルムロイトへ入れば、ホルマン少佐も、勝手には動けない」
「その通りです」
「護送隊は」
「アルムロイト側の案内へ従います。必要がなければ、辺境伯領の深部までは入りません」
「帝国の軍監殿から預かった鍵も、外国の門までは開けられない」
「ええ」
クラウゼは頷いた。
「鍵には、使える扉があります」
レオンは、少しだけ笑った。
分かりやすい。
だが、単純ではない。
それが、国を動かす仕組みなのだろう。
「アルムロイトでは、軍も同じように動くのか」
「通常の軍階級はあります。ただし、帝国とまったく同じではありません」
クラウゼは、遠くの山並みへ視線を移した。
「領地が広く、地形が違いすぎます。山道を守る者、河川を管理する者、港を守る者、鉱山街道を護衛する者、沿岸を見張る者。それぞれに必要な知識が違う」
カミラが、膝の上へ地図を広げ直す。
「平地の軍制だけを当てはめても、守れない。国土の八割が山で、残りも河川、丘陵、海岸線が多い。兵を大量に置ける場所は限られる」
「守る側も大変だな」
「攻める側は、もっと大変です」
クラウゼが答えた。
「大軍を入れても食べさせられない。橋を落とされれば止まる。山道を一本塞がれれば、荷車が進まない。守る側は道を知っている。攻める側は、紙の上の線しか知らない」
「その紙も、正確とは限らない」
カミラが言った。
「辺境伯は、軍事力だけで大国三つへ勝てるとは考えていない。ただし、どの国にも、攻めれば損が大きすぎると思わせている」
帝国。
ヴェルシャイン王国。
カラドリン山岳王国。
互いに牽制し合う大国の間へ、広大な山河の土地が残っている。
鉱山。
港。
川。
海。
利用価値がある。
だからこそ、誰か一国だけへ渡したくない。
「面倒な土地だな」
レオンは言った。
「面倒だから、生き残っている」
カミラが答えた。
「辺境伯も?」
「おそらく」
「気が合うかもしれない」
「会う前から、迷惑を掛ける気でいるな」
「礼儀正しくする」
「信用できない」
「まだ、何もしていない」
「これまでの実績がある」
返答は早かった。
以前にも、似た言葉を使われた。
ただし、同じではない。
声には、呆れだけではなく、隣へいることを当然とする響きが混ざっている。
レオンは、カミラが敷いてくれた外套の感触を確かめながら、ゆっくりと身体を沈めた。
「曹長」
「何でしょう」
「結論が出た」
「何の」
「ホルマン少佐は、大尉より上、大佐より下。ただし、軍監から限定された鍵を預かれば、大佐へも止まれと言える。軍監殿は、兵を前へ進める将軍ではなく、進めてよいかを確かめる役目を持つ。俺は自由な旅人ではなく、金貨千枚の値札が付いた重要証人兼保護拘束対象。そして、帝国の鍵は、アルムロイトの門までは勝手に開けない」
「よく整理されています」
「学ぶ男だからな」
クラウゼの口元が、わずかに動いた。
「毛布の交渉を除けば」
「そこも重要だ」
カミラが、静かに言った。
「却下済みだ」
レオンは目を閉じた。
「この荷車の中で、一番偉いのは誰だ」
クラウゼは答えない。
カミラも答えない。
少し前なら、即座に叱られただろう。
今は、二人とも、レオンがどこへ着地するつもりなのかを待っている。
「怪我人」
レオンは、自分で答えた。
「違う」
カミラが言った。
「軍医です」
クラウゼが答えた。
二人の声が、ほとんど同時に重なった。
レオンは、外套を敷かれた座面へ身体を預けたまま、小さく息を吐いた。
「軍隊は、難しいな」
「ようやく、正しいことを学んだ」
カミラが言った。
確認を終えたハインリッヒが馬へ戻り、護送隊は再び動き始める。
丘陵の向こうには、アルムロイトの山並みがある。
ヴァルター軍監から託された封書。
金貨千枚の賞金首。
イタリカから追われる監察官。
広大な山河を治める辺境伯。
これから、自分は何を見せられ、何を問われるのだろう。
十八歳の頃には、自分が何を知らないのかさえ知らなかった。
今は、知らないことの多さだけは分かる。
それは、情けないことかもしれない。
だが、学び直すには、悪くない出発点でもある。
夕方の光の中で、荷車は山へ向かった。
──第五十七部 了




