第五十七部 賞金首と、少佐が大佐を止められる理由を聞く話 ③ 細い川と、クラウゼの学習
街道が林を抜けると、細い川が現れた。
雪解けにはまだ少し早い。それでも水量は多く、岸辺の木々には、過去の増水で削られた跡が残っている。街道と川が近づく場所では、地面が柔らかくなり、石で補修された轍の間へ薄い泥が溜まっていた。
隊列の先で、ハインリッヒが右手を上げる。
護送隊が止まった。
少し先に、荷車が一台、斜めに傾いている。
塩袋を積んだ商人の荷車だった。道の端へ寄りすぎた後輪が柔らかな土へ沈み、荷台も左へ傾いている。馬は苛立ち、鼻を鳴らしながら前脚で地面を掻いていた。
「荷を半分降ろせ」
ハインリッヒは馬から降り、商人へ声を掛けた。
「後輪の下へ平たい石を入れる。馬を引く前に、綱を緩めろ」
兵士たちが動く。
クラウゼも前方へ向かおうとした。
レオンは、傾いた荷台へ目を向けた。
塩袋の重なり。
縄の張り方。
沈んだ後輪。
道の勾配。
馬の位置。
積荷の偏り。
「曹長」
「何でしょう」
「石を入れる前に、上から三段目の袋を二つ、右へ移した方がいい」
クラウゼが足を止めた。
「車輪だけではなく?」
「車輪も沈んでいる。だが、荷が左へ寄りすぎている。このまま前へ引けば、石へ乗る前に車軸が折れる」
レオンは毛布を押しのけ、身体を起こした。
「少し降りる」
「駄目だ」
カミラの手が、レオンの膝へ置かれた。
脇腹へ肘が入るわけではない。
声を荒げるわけでもない。
ただ、怪我をした男が立ち上がろうとする動きを、静かに止める。
「角度を見たい」
「ここから見えている」
「荷車の横から確認した方が」
「必要なら、曹長が見る」
レオンは、膝へ置かれた手へ視線を落とした。
細い指。
右手には、火傷を覆う布が巻かれている。
その手が、自分の膝の上へある。
力は強くない。
だが、退けようとは思わなかった。
「クラウゼ曹長」
カミラは、傾いた荷車へ目を向けたまま言った。
「袋を移す価値はある。車軸も見ろ」
「確認します」
クラウゼは前方へ走り、塩袋を降ろしていた兵士へ声を掛けた。荷台の左側へ偏っていた袋を二つ、右へ移し、そのあとで後輪の下へ平たい石を差し込む。
「引け!」
ハインリッヒの声が飛んだ。
馬が前へ出る。
車輪が泥を噛み、荷台が大きく軋む。
沈んでいた後輪は石へ乗り、ゆっくりと轍の外へ上がった。車軸は折れず、荷台も倒れない。
商人は、何度も頭を下げた。
兵士たちが塩袋を積み直し、荷車を街道の端へ寄せる。
ハインリッヒは、車軸へ一度だけ手を当て、荷の偏りを確かめると、こちらへ視線を向けた。
「助言は有用だった」
それだけ言い、商人へ道の状態を確認し始める。
礼を言うためだけに、会話を長引かせない。
やはり、働き者だ。
見ているだけで疲れる。
クラウゼが戻ってきた。
「助かりました」
「見れば分かる」
「荷車へ詳しいのですか」
「詳しくなりたくて、なったわけではない」
レオンは、再び毛布へ背中を預けた。
「奴隷施設では、荷を運べなければ食事が減った。傭兵になってからは、荷車が壊れれば、自分で背負う羽目になった。嫌でも見る」
言葉にすると、思ったより軽い。
軽く言える程度には、時間が過ぎた。
だが、消えたわけではない。
カミラは、しばらく何も言わなかった。
レオンの膝へ置いていた手を離し、自分の横へ畳んでいた外套を一枚持ち上げる。それを二つ折りにし、レオンの尻の下へ押し込んだ。
「少し腰を上げろ」
「何を」
「座面の改善だ」
レオンは、一瞬だけ動きを止めた。
「却下されたはずでは」
「荷車の揺れで傷を開かせる方が面倒だ」
「俺の尊厳が認められた」
「傷口の管理だ」
「同じことでは?」
「違う」
カミラは短く言い、地図へ視線を戻した。
ただし、耳の先が、わずかに赤い。
レオンは、そのことを指摘しなかった。
指摘すれば、外套を引き抜かれる可能性がある。
自分の幸福を守るため、黙るべき時もある。
人間は、学ぶ。
奴隷施設でも、傭兵生活でも、学べなかった種類の知恵だった。
「元王子の帝王学とは、ずいぶん違いますね」
クラウゼが言った。
「王宮でも、荷車の授業はあった」
「本当ですか」
「厨房へ菓子を運ぶ荷車の経路なら、かなり正確に覚えている」
カミラが、ゆっくりと顔を上げる。
「盗んでいたな」
「品質確認だ」
「誰の許可で」
「王子としての責任感」
「二十八歳になっても、言い訳だけは育たない」
「完成度が高いからだ」
カミラは、呆れたように息を吐いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
大きくはない。
だが、レオンは見逃さない。
見逃さないが、言わない。
そこまで含めて、学習だった。
──第五十七部 了




