第五十八部 門が一つではない国の話 ② 灰岩関と、二つ目の柵
引き渡しの記録が整うと、帝国軍の護送兵たちは、灰岩関の手前で足を止めた。
ここから先は、外国である。
ヴァルター軍監から預かった鍵も、帝国軍の徽章も、身分証明にはなる。だが、アルムロイトの内側で命令権にはならない。
昨日、クラウゼ曹長から聞いた通りだった。
ハインリッヒは馬を降りたまま、荷車の横へ来た。
「ここから先は、向こうの案内に従え」
「世話になった」
「病院でも、十分世話を焼かされた」
ハインリッヒは、包帯の残るレオンの脇腹へ一度だけ目を向ける。
「今さら一つ増えても、大差はない」
「今回は、多少は聞き分けが良かっただろう」
「どこがだ」
「荷車から、一度も落ちていない」
「降りようとして、三度止められただろう」
「結果として、落ちてはいない」
「結果だけで胸を張るな」
帝国軍病院で寝台を並べていた頃にも、よく似たことを言われた。
あの時も、傷が少し塞がれば歩こうとし、寝台へ戻され、動けることと動いてよいことは違うと叱られた。エルゼからも、ハインリッヒからも、同じ種類の視線を向けられた記憶がある。
帝国軍人は、妙なところで記憶が良い。
「白鷹門での証言は助かった」
ハインリッヒの声が、少しだけ低くなる。
「だが、分かっているな。軍監殿の処置は赦免じゃない。賞金も消えていない」
「曹長から、かなり丁寧に教わった」
「なら、勝手に歩くな。傷も開く」
「最後に言うことが、それか」
「お前には、それくらいでちょうどいい」
レオンは、少しだけ笑った。
「病室を出ても、扱いが変わらない」
「変える理由がない」
ハインリッヒは答え、それからカミラへ視線を移す。
「監察官殿」
「何だ」
「そいつが無茶を始めたら、止めてください」
「すでに止めている」
「助かります」
カミラの眉が、わずかに寄る。
「あんたまで、私をこいつの管理役にするな」
「適任です」
ハインリッヒは、表情を変えずに答えた。
隣で聞いていたレオンは、口元を緩める。
「帝国軍は、人を見る目がある」
「黙れ」
カミラが低い声で返した。
ハインリッヒは、それ以上踏み込まなかった。
ただし、馬へ戻る前に足を止め、今度はカミラの右手へ巻かれた布を見る。
「監察官殿も、自分の傷を軽く扱わないように」
「分かっている」
「そいつと同じ返事です」
カミラが、一瞬だけ黙る。
レオンは笑いかけたが、灰色の目がこちらへ向いたため、賢明にも途中でやめた。
ハインリッヒは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それから表情を戻し、ベルク監督官へ向き直る。
「辺境伯閣下への私信は、受取役へ直接渡します。灰岩関の内側までは、部下を一名同行させたい」
「承知しました」
ベルク監督官が答えた。
制度と、信頼。
どちらか一方だけでは足りない。
この移送そのものが、そういう形をしている。
帝国軍の護送兵が、街道の向こうへ戻っていく。
クラウゼ曹長も、最後に一度だけ荷車へ目を向けた。
「毛布は、増えませんでしたね」
レオンが言った。
「外套が増えたように見えます」
「監察官の自主的な判断だ」
「それは、何よりです」
曹長は、ほんの少しだけ笑い、帝国側へ戻っていった。
◇
灰岩関の二つ目の柵が上がる。
荷車は、アルムロイト辺境伯領へ入った。
道が急に良くなるわけではない。
むしろ、山肌へ沿う街道は帝国側より細くなり、曲がり角も増えた。川へ近づく場所では、車輪が滑らないよう石が敷かれ、斜面側には、崩落を防ぐための低い石壁が続いている。
ただし、放置されてはいない。
道の端には、一定の間隔で目盛り柱が立っていた。
川の水位。
雪の深さ。
崩落の危険。
橋へ載せてよい荷重。
文字だけではなく、色を塗った線と刻み目でも分かるように作られている。字を読めない者でも、危険の程度を見誤らないためだろう。
少し進むと、川へ渡された木橋の手前で、再び荷車が止められた。
今度は、兵士ではない。
厚い革の前掛けを着けた女と、若い男が二人、橋のたもとへ立っている。女は手に持った板へ何かを書き込みながら、荷車の車輪、積荷、馬の数を順番に見ていた。
「停車を」
女が言う。
ベルク監督官が荷車の前へ出た。
「灰岩関からの客人だ」
「客人でも、橋へ掛かる重さは変わりません」
女は答えた。
ベルク監督官は、少しも不快そうな顔をしない。
「その通りだ。待つ」
前には、鉱石を積んだ荷車が二台。
塩樽を載せた荷車が一台。
羊毛を積んだ軽い荷車が二台。
橋の向こう側には、空荷の荷車が一台待っている。
レオンは、通す順番を見た。
空荷。
羊毛。
鉱石。
塩。
また、空荷。
一度に橋へ載せない。
荷車と荷車の間隔も、妙に長い。
「橋が弱いのか」
レオンが訊く。
女は板へ目を落としたまま答えた。
「弱くはありません。水が多いだけです」
「同じでは?」
「違います」
女は、橋の下を流れる川へ顎を向けた。
「雪解けが始まれば、川底の岩が動きます。橋脚へ流木も当たる。昨日まで渡れた重さでも、今日渡れるとは限りません」
「毎日、量る?」
「朝、昼、夕方。雨が降れば、その都度」
レオンは、橋のたもとへ立つ目盛り柱を見る。
水位を示す線。
橋へ載せてよい荷重。
通過した荷車の数。
記録板。
「兵士ではないのか」
「河橋管理人です」
女は答えた。
「ミレナ・ハルト。橋が落ちれば、兵士も商人も通れません」
レオンは、少しだけ口元を緩めた。
「門が、また一つ」
ミレナは、初めてこちらを見る。
「何の話ですか」
「こちらの話だ」
カミラが言った。
声には、わずかな楽しさが混じっている。
その時、川上から低い音が響いた。
木が折れるような音。
次に、水を叩く重い衝撃。
全員の視線が、川上へ向く。
雪解け水へ流された太い木が、白い泡の中で何度も回転しながら下ってきた。根の一部が残り、濡れた枝が川面へ引っ掛かるたび、水飛沫が高く上がる。
「橋から離れて!」
ミレナが叫んだ。
声が飛んだ瞬間、周囲の者たちは迷わず動いた。
橋へ近づこうとしていた商人が荷車を引き、若い管理人たちは欄干へ掛けていた縄を外す。ベルク監督官の護衛も馬を後ろへ下げ、橋のたもとにいた者を石壁の内側へ誘導する。
流木が橋脚へぶつかった。
鈍い音が谷へ響き、橋全体が大きく震える。
欄干へ掛けられていた板の一部が外れ、川へ落ちた。
ただし、橋脚は持ちこたえた。
流木は橋の下へ引っ掛かりかけたが、若い管理人が長い鉤棒を使い、角度を変える。ミレナが縄を引き、もう一人が対岸から声を掛ける。
数回のやり取りのあと、太い木は向きを変え、白い水へ飲み込まれながら下流へ流れていった。
谷へ残ったのは、激しい水音だけだった。
ミレナは橋へ近づき、欄干、床板、橋脚の順番に確かめる。
「通行停止」
言った。
「確認が終わるまで、誰も渡さない」
鉱石を積んだ商人が、困った顔をした。
「どれくらい掛かる」
「分かりません」
「日が暮れる」
「橋が落ちれば、日暮れでは済みません」
ミレナの声は冷たいわけではない。
だが、譲らない。
ベルク監督官も口を挟まない。
レオンは、川を見た。
「敵が来なくても、門は閉じる」
カミラが小さく言った。
「川が来るからな」
「国を守るのは、剣だけではない」
カミラは、橋脚へ目を向けた。
「道を閉じる判断も、守りだ」
レオンは、その言葉を胸の中で転がした。
十八歳の頃、自分が考えていた守りは、もっと単純だった。
兵を置く。
敵を見る。
剣を抜く。
矢を射る。
橋を守る。
だが、橋を守るとは、橋の上で戦うことだけではない。
水位を測る。
荷車の重さを量る。
渡らせない。
商人から不満を言われても、閉じる。
明日も使える状態で残す。
戦場へ立つ前に、すでに守りは始まっている。
──第五十八部 了




