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第五十七部 賞金首と、少佐が大佐を止められる理由を聞く話 ① 帝国北方街道と、アルムロイト辺境伯領


Another Side 帝国北方街道


 白鷹門を離れてから二日目の午後、護送隊が進む街道は緩やかに南東へ折れ、帝国北方管区の平坦な土地から、山と河川の気配が少しずつ濃くなる丘陵地帯へ入っていた。


 冬を越した丈の低い草が風に伏せ、その奥では黒い針葉樹林が斜面に沿って続いている。さらに遠くへ目を凝らせば、幾重にも重なった山並みの尾根には白い雪が残り、午後の日差しを受けた部分だけが、薄い銀の線を引いたように光っていた。


 あの向こうに、アルムロイト辺境伯領がある。


 地図の上だけで見れば、グランデル帝国、ヴェルシャイン王国、カラドリン山岳王国の間へ大きく食い込んだ、ひどく不格好な土地だった。国土の八割近くは山地であり、残る場所にも川、丘陵、海岸線が複雑に入り組んでいる。人がまとまって暮らし、畑を広げられる土地は全体の一割か、多く見積もっても二割ほどしかない。


 それでも、鉱山資源、漁場、湾港、河川交易路を抱えた領地として、周辺のどの国も無視することはできなかった。


 欲しい。


 だが、攻めたくはない。


 仮に攻め落とせたとしても、長く抱え込みたくはない。


 山道を一本奪えば、その先には次の峠があり、川を一つ越えれば、橋を落とされる。大軍を入れても、食糧と飼葉を運ぶ荷車が通れなければ、戦える日数は限られる。海側から回れば、入り組んだ湾岸と港ごとの守備隊が待ち、カラドリン側から抜けようとすれば、集落のほとんどない山岳道を長く進まなければならない。


 大国三つに囲まれながら、長く呑み込まれずに残ってきた。


 地形が守った。


 資源が支えた。


 だが、それだけではない。


 どの国にも、攻めて得る利益より、攻めたあとに背負う損失の方が大きいと思わせる。必要な時には譲り、譲れない場所だけは絶対に渡さず、鉱石、塩、港、通行権、婚姻、書状、噂まで秤へ載せる。


 それを続けてきた人物が、アルムロイト辺境伯だった。


 ヴァルター軍監から辺境伯へ宛てられた封書は、隊列の先頭を進むハインリッヒ・フォン・ホルマンが預かっている。


 レオンは、荷車の上から、その後ろ姿を眺めていた。


 ハインリッヒは、旅装へ着替えても姿勢を崩さない。腰へ帯びた剣、肩から下げた書類袋、外套の留め具に至るまで無駄がなく、前方の道だけでなく、左右の林、後方の荷車、護送兵の間隔を、一定の時間ごとに確かめている。


 出立前、若い兵士が彼へ駆け寄り、


「ホルマン少佐、隊列の準備が整いました」


 と報告していた。


 少佐。


 大尉より上で、大佐より下。


 そこは、訊くまでもない。


 レオンは十八歳で三百人ほどの兵を預かり、敗戦後には傭兵として複数の戦場を渡り歩いた。国ごとに徽章の意匠や役職の細部が違っても、通常の階級序列まで知らないわけではない。


 分からないのは、別のことだった。


 レオンは、尻の下へ敷かれた毛布の位置を少しだけ直し、荷台の側板へ背中を預けた。


 白鷹門で負った矢傷と、それ以前から積み重ねた傷は、温泉へ浸かり、包帯を巻き直し、軍医から二日分の説教を受けた程度では消えてくれない。帝国外へ出すと決められたあとも、歩いてよいとは誰も言わず、むしろ荷車から降りるなという命令だけが、帝国軍の中で妙に強く共有されていた。


 金貨千枚の賞金首。


 旧リュカリオン王家の第1王子。


 白鷹門事件の重要証人。


 北方軍内部へ入り込んだ何者かにとって、消したい可能性のある人間。


 どの肩書きを採用しても、自由に歩かせてよい理由にはならないらしい。


 隣では、カミラが膝の上へ地図を広げていた。


 灰色の外套の下には、まだ包帯が残っている。白鷹門で負った火傷は右手の甲から手首へ薄く伸び、長時間の揺れが脇腹の古傷へ響くのか、一定の間隔で姿勢を変えていた。


 それでも、休もうとはしない。


 帝国北方街道。


 河川沿いの分岐。


 途中の宿駅。


 アルムロイト側の関所。


 地図の端へ細い指を添え、小さな帳面へ何かを書き込んでいる。


「なあ」


 レオンが声を掛けると、カミラは顔を上げなかった。


「降りるな」


「まだ、何も言っていない」


「言わなくても分かる」


「人を勝手に理解したつもりになるのは、監察官の悪い癖だ」


「二日前、同じ声で荷車から降りようとした」


「あれは、足の状態を確かめる必要があった」


「地面へ着く前に、軍医と兵士三人に戻されたな」


「過剰な保護だった」


「適切な判断だ」


 カミラは地図へ視線を落としたまま答えたが、口元には、わずかな緩みが残っている。


 以前なら、レオンが傷の具合を気にするだけで、鬱陶しそうに追い払った。今も素直に心配されることには慣れていないらしいが、少なくとも、同じ荷車へ乗り、地図を広げ、レオンの呼吸が乱れれば黙って水筒を渡す程度には、隣へいることを自然に受け入れている。


 変化は小さい。


 だが、小さいからこそ、レオンにはよく分かる。


「本当に降りたいわけではない」


 レオンが言うと、カミラはようやく顔を上げた。


「では、何だ」


「知識を得たい」


「急に不安になる言い方をするな」


「俺だって、学ぶことはある」


「学ぶ前に、目的を言え」


 レオンは、荷車の横を歩く兵士へ顔を向けた。


 四十代半ばほどの男だった。日に焼けた頬には細かな皺が刻まれ、兜の下から覗く短い髪には白いものが混ざっている。肩へ付けた簡素な徽章は曹長を示しており、歩幅は一定で、ぬかるみを避ける時も、荷台の揺れを確かめる時も、無駄な動きがない。


 護送隊へ選ばれた古参兵。


 グスタフ・クラウゼ曹長。


 昼前に一度名乗られたが、レオンは名前より先に、干し肉を切り分ける時の手つきを覚えた。


 厚みが均等だった。


 非常に信用できる。


「曹長」


「何でしょう」


 クラウゼは歩調を変えずに答えた。


「一つ、確認したい」


「毛布でしたら、増えません」


 先回りされた。


 レオンは、自分の尻の下へ敷かれた毛布を押した。


「まだ、何も言っていない」


「先ほどから、座面を気にしておられますので」


「護送任務へ必要なのは、観察力だけではない。人間への思いやりも重要だ」


「十分に配慮しております」


「議論の余地がある」


「ない」


 隣で地図を見ていたカミラが、顔を上げずに言った。


「では、毛布については、あとで改めて交渉する」


「交渉の余地もない」


「本題は別だ」


 レオンは、前方へ視線を戻した。


「ホルマン少佐について、少し気になる」


「階級でしたら、少佐です」


「そこは分かる。俺も一応、兵を預かったことはある」


「一応、ではないだろう」


 カミラの声が、わずかに低くなる。


 十八歳で預かった三百人。


 その先にある敗戦と死者を、軽い冗談だけで流させない声だった。


 レオンは、一度だけ目を伏せ、それから言葉を続けた。


「少佐は、大尉より上で、大佐より下だ。だからこそ解せない。白鷹門では、ホルマン少佐が、ヘスラー大佐へ止まれと言った。普通なら、逆だ」


 クラウゼは、すぐには答えなかった。


 数歩分の時間を使い、言葉を選ぶ。


「ホルマン少佐殿ご自身が、ヘスラー大佐殿より上になったわけではありません」


「では、なぜ止められる」


「ヴァルター軍監殿から、白鷹門事件に関する一時停止権限を預かっていたからです」


「軍監の名代として?」


「正確には、限定された案件について、軍監殿の命令を執行する者としてです」


 レオンは、少しだけ目を細めた。


「命令書一枚で、階級がひっくり返るわけではない」


「ええ」


「大佐は、大佐のまま。少佐も、少佐のまま。ただし、軍監から預かった範囲だけは、少佐が止められる」


「その理解で構いません」


 クラウゼは、街道の先を見ながら続けた。


「城主より、鍵を持つ番人の方が偉いわけではありません。ですが、火事が起き、水門を開けなければ街が焼ける時、鍵を預かった番人が、城主へ確認を取りに走っている余裕はない」


 白鷹門。


 火。


 水門。


 煙。


 濡れた石。


 その上で息を切らしながら指示を出していたカミラ。


 レオンは、少しだけ黙った。


「鍵を預かった者は、必要な時だけ開ける」


「はい」


「だが、城主になったわけではない」


「その通りです」


「止める権限と、兵を指揮する権限は別か」


「別です」


 今度は、カミラが答えた。


「軍監は、方面軍司令官の代わりに戦争を指揮する者ではない。命令、補給、移送、保安、規律に異常がないかを調べ、必要な時に一度止める。止めたあとで、原本を押さえ、中央へ裁可を求める」


「軍の中にいる監察官に近い」


「かなり雑だが、入口としては悪くない」


 カミラは地図へ視線を戻した。


「雑だと言いながら、最後は認めるな」


「理解できる程度まで削っているだけだ」


「では、曹長」


 レオンは続ける。


「軍監殿へ頼めば、毛布は増える?」


「増えません」


「鍵は預けても、毛布は増やさない」


「帝国軍の健全性が保たれています」


 クラウゼは淡々と言った。


 隣を歩く若い兵士は、明らかに会話を聞いている。肩がわずかに揺れているのに、絶対に顔を向けない。


 笑えば巻き込まれる。


 そう判断したのだろう。


 賢い。



 ──第五十七部 了


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