第五十六部 白い羽根と、百年ぶりの帰郷を決める話 ④ 遠ざかる港と、百年ぶりの海路
港の音が、少しずつ遠ざかる。
秤の錘が落ちる乾いた音。
魚を運ぶ声。
木箱の蓋を閉める音。
追跡者が、記録小屋の老人へ何かを問い詰める声。
どれも、岩礁の向こうへ消えていく。
水路は狭い。
左右へ少しでも寄れば、舟底が岩へ触れる。
ヨルンは、櫂を大きく動かさなかった。潮の流れへ船首を合わせ、必要な時だけ角度を変える。
エッダは前へ座り、海面の色を見ながら、指で進路を示した。
ルーウェンは、レイラの向かいへ座っている。
昨日までと同じ毛織りの上着。
同じ淡い金髪。
同じ深い緑色の目。
ただし、腰には古い杖があり、胸元の袋には、百年間使わなかった徽章が入っている。
「ルーウェンさん」
レイラは言った。
「何だ」
「私のために、戻るのですか」
ルーウェンは、すぐには答えなかった。
岩礁を抜けるまで待つ。
水路が少し広がり、舟が波へ乗れる場所まで来てから、口を開いた。
「お前だけのためではない」
「では」
「百年帰らなかったのは、俺が決めた。いま戻るのも、俺が決める」
簡潔な言葉だった。
フィヨルドの人々と、よく似ている。
助けるかどうかは、自分で決める。
舟へ乗る者が、自分で決める。
誰かの善意を受け取る時、レイラは申し訳なさばかりを先へ置いてきた。
だが、相手が自分で選んだ決断まで、自分の罪のように扱うことは、相手の意思を軽く見ることにもなる。
「分かりました」
レイラは答えた。
「ただし、忘れません」
「何を」
「助けてもらったことを」
ルーウェンは、ほんの少しだけ目を細めた。
「それならいい」
やがて、岩礁が途切れる。
海面が広がる。
西の空は薄く曇り、その向こうには、低い島影が重なっていた。
シルヴァスは、まだ見えない。
森の門も。
三百年前の約束も。
自分の血へ残ったものも。
何一つ、確かめられていない。
それでも、レイラは一人ではなかった。
六日前、修道院の裏門から荷車へ乗った時には、革袋の中の紙と羽根しか持っていなかった。
いまは、ヨルンの小舟がある。
エッダの笑い声がある。
百年ぶりに帰郷を決めた、淡い金髪のエルフがいる。
胸元の革袋には、白い羽根が戻っている。
まだ、森へは見せていない。
だが、見せる相手は決まった。
小舟は、西へ進んだ。
──第五十六部 了




