第五十六部 白い羽根と、百年ぶりの帰郷を決める話 ③ エッダとヨルンと、西の舟置き場
昼前になると、エッダは一度だけ倉庫を出て、ヨルンと話をして戻ってきた。
「父が、西の舟置き場で待ってる。潮が下がり始めたら、岩礁の間を抜ける」
「追跡者は」
「南へ向かう漁船に、北東から来た女が乗ったって噂が流れてる。二人はそっちへ行った。一人は港に残ってる」
「誰が噂を?」
レイラが訊くと、エッダは肩を竦めた。
「港では、魚と噂は勝手に流れる」
「勝手に?」
「たぶん」
答え方が、少し不自然だった。
レイラは、それ以上訊かなかった。
誰かが、自分を逃がすために嘘を流した。
港務番の老人かもしれない。
エッダの母親かもしれない。
少年ニルの母親か。
あるいは、事情を知らずに面白がった船乗りかもしれない。
誰であっても、受け取った助けの一つだった。
倉庫から出る前に、ルーウェンは帆布の袋から、小さな木片を取り出した。
手のひらほどの幅しかない。
古い舟板の一部らしく、表面へ塩が浮き、端には細い亀裂が走っている。
「何ですか」
レイラが訊く。
「ヨルンの舟の板だ」
「壊れているの?」
「昨日、見つけた。今日の水路を抜けるには、直した方がいい」
「交換する板がない」
エッダが言う。
「乾かす時間もないし、樹脂を塗っても、すぐ海へ出したら剥がれる」
「だから、直す」
ルーウェンは、倉庫の奥へ置かれた作業台へ木片を載せた。
指先で亀裂をなぞる。
次に、腰へ結んだ細身の杖を抜いた。
レイラは、息を止めた。
杖の先が、木片へ触れる。
ルーウェンは、人間の言葉ではない短い音を口にした。
歌ではない。
祈りでもない。
誰かへ命令する声とも違う。
長く忘れていた名前を、静かに呼び戻すような響きだった。
木片の表面へ、淡い緑色の光が滲んだ。
亀裂の奥から、細い筋が伸びる。
光は根のように枝分かれしながら、乾いた木の繊維へ沿って広がっていく。塩に白く曇っていた表面が、雨を吸った樹皮のように濃い色へ変わり、開いていた亀裂の縁がゆっくりと近づいた。
軋む音がする。
木が、自分の形を思い出している。
レイラには、そう見えた。
ルーウェンが杖を離した時、木片の亀裂は完全に消えてはいなかった。
薄い筋は残る。
ただし、指で押しても開かない。
海水へ浸けても、すぐには割れないだろう。
エッダは、珍しいものを見た顔ではなかった。
「もう少し、早く直せたんじゃない?」
「昨日のうちに樹脂を塗った。木にも、馴染む時間が要る」
「魔法でも?」
「魔法だからこそだ」
ルーウェンは木片を持ち上げ、光へ透かした。
「木は、命令しても元へ戻らない。どう育ち、どこで切られ、どれだけ海へ浸かったかを覚えている。急がせれば、別の場所が割れる」
レイラは、作業台へ残った淡い光を見た。
「魔法」
自分でも気づかないうちに、声へ出していた。
ルーウェンが、こちらを見る。
「初めて見たか」
「はい」
「森の外では、珍しいだろう」
「シルヴァスでは、普通なのですか」
「誰もが同じことをできるわけではない。木へ話しかける者もいれば、薬草の力を引き出す者も、風の流れを読む者もいる。大げさに見せるものではない」
「戦うためには?」
「使える者もいる」
ルーウェンは杖を腰へ戻した。
「だが、戦う時だけ使う力なら、百年も身体へ残らない。帆を直し、骨を繋ぎ、熱を下げ、冬を越すために使う。魔法も、生活の中へ置かなければ鈍る」
エッダが、修復された木片を受け取る。
「先生は、港でずっと使ってるよ。魚箱の底を直したり、薬草を冬まで持たせたり、子どもが木へ登って降りられなくなった時に枝を少し下げたり」
「最後は、誰ですか」
レイラが訊く。
「私」
エッダは、少しも恥ずかしそうにせず答えた。
「七歳くらい」
「九歳だ」
ルーウェンが訂正する。
「細かい」
「人間は、時間を細かく分けるのではなかった?」
エッダが言い返すと、ルーウェンは黙った。
レイラは思わず笑った。
昨日、海水の中で見た金色の糸。
いま、目の前で木材へ滲んだ緑色の光。
同じものではない。
だが、どちらも、この世界に存在する。
自分が何をしたのかは、まだ分からない。
それでも、気のせいではなかった可能性が高くなった。
胸元の革袋へ戻した白い羽根が、ほんの少しだけ温かく感じられた。
気のせいかもしれない。
いまは、それでよい。
◇
西の舟置き場へ向かう道は、港の表通りを避け、石壁の間へ伸びる細い坂を下っていた。
ヨルンの小舟は、昨日とは別の場所へ置かれている。岩陰へ半分隠され、濡れた帆布と古い網を上から被せられていた。
ヨルンは、修復された舟板を受け取ると、亀裂の跡へ親指を押し当てた。
「持つか」
「今日の潮なら」
ルーウェンが答える。
「明日以降は」
「岸へ着いたら、改めて直せ」
「分かった」
ヨルンは、それ以上訊かなかった。
ルーウェンが舟へ乗ることも。
百年ぶりに森へ帰るらしいことも。
ただ、積荷の位置を変え、レイラが座る場所を空けた。
エッダは、水樽、乾燥魚、毛布を順番に載せる。
「私も行く」
言った。
ヨルンが顔を上げる。
「ローヴィクの外までだ」
「分かってる」
「西の入り江で降ろしたら、戻る」
「分かってる」
エッダは同じ言葉を繰り返し、次にレイラを見る。
「森まで行きたいけど、父を一人で帰すと、途中で膝へ訊きすぎるから」
「膝は、訊かなくても答える」
ヨルンが言った。
「そういうところ」
エッダは笑った。
レイラは、何と答えればよいのか少し迷った。
「ありがと」
ようやく言う。
六日前なら、ありがとうございます、と深く頭を下げていただろう。
いまも、つい身体が動きそうになる。
だが、エッダは、王女としての礼ではなく、マリアとしての言葉を望んでいる。
「うん」
エッダは、それだけ答えた。
干潮が始まる。
水位が下がり、岩礁の間へ細い緑色の水路が現れた。
表の港から見れば、舟が通れるようには見えない。白い泡が岩へ砕け、海藻が水の下で揺れている。
ルーウェンが舟へ乗る。
レイラも続く。
最後にエッダが縄を解き、ヨルンが櫂を入れた。
小舟は、岩陰へ滑り出した。
──第五十六部 了




