表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

292/317

第五十六部 白い羽根と、百年ぶりの帰郷を決める話 ② 二度の戸叩きと、帰郷の決意

 倉庫の戸が、外側から短く二度叩かれた。


 次に、一度だけ間を置き、もう一度。


 エッダが立ち上がる。


「先生」


「合図があるの?」


「昨日決めた」


 エッダは戸の前へ行き、隙間から外を確かめてから閂を外した。


 ルーウェンは、肩へ帆布の袋を掛け、片手には細長い木箱を持っていた。昨日と同じように、淡い金色の髪を首の後ろで束ねている。白金にも見える毛先には、港の風が運んだ細かな塩が残り、厚い毛織りの上着からは、薬草と樹脂の匂いがした。


「追跡者は」


 エッダが訊く。


「三人とも港にいる。一人は記録小屋、二人は船主へ聞き回っている。銀貨を使い始めた」


「誰か話した?」


「北東から来た小舟が、六日前に港へ入ったという話は出ている。乗っていた者までは、まだ知られていない」


「時間の問題だね」


「ああ」


 ルーウェンは答え、レイラを見る。


「歩けるか」


「歩けます」


「昨日も、似たことを言った」


「今日は、本当に」


「なら、試す必要はない」


 ルーウェンは木箱を床へ置いた。


「潮が変わるのは、昼過ぎだ。港の西側に、干潮の時だけ抜けられる水路がある。ヨルンが舟を出す」


「先生も乗るの?」


 エッダが訊く。


「そのつもりだ」


 答えは短かった。


 エッダの目が、わずかに大きくなる。


「港の外まで?」


「その先も」


「森まで?」


「必要なら」


 ルーウェンは、あまり大きなことを言ったつもりはないように、淡々と帆布の袋を下ろした。


「家は?」


「しばらく空ける」


「薬は?」


「棚へ分けた。熱冷ましと咳止めは、お前の母親でも分かるよう印を付けた。怪我人が出たら、西通りのイーヴァンへ頼め。縫合は下手だが、死なせるほどではない」


「帆の修理は」


「急ぎでなければ待て」


「急ぎなら?」


「自分で縫え」


 エッダは口を開き、しばらく何も言わなかった。


「本気なんだ」


「ああ」


 ルーウェンは、床へ置いた細長い木箱の蓋を開けた。


 中には、白金色の徽章と、古い革紐で束ねられた細身の杖が入っている。杖は武器というより、長く使い込まれた旅道具に見えた。表面には細かな傷があり、握る場所だけ色が深くなっている。


 エッダは、徽章を見ると、見慣れないものへ触れるのを避けるように一歩だけ下がった。


「それ、何?」


「昔のものだ」


「先生の昔は、長いから分からない」


「分からなくていい」


 ルーウェンは徽章を革袋へ入れ、杖を腰へ結び付けた。


 その仕草に迷いはない。


 ただし、慣れてもいなかった。


 百年近く触れなかったものを、身体へ戻している。


 レイラには、そう見えた。


「なぜ、そこまで」


 問い掛けると、ルーウェンは少しだけ視線を動かした。


「昨日、海の中で何か見なかったか」


 レイラの左手が、無意識に動く。


「光を」


「どんな」


「細い糸のようなもの。淡い金色で、網へ触れた気がする」


「気がする?」


「分かりません。自分が何をしたのかも」


「そうか」


 ルーウェンは、それ以上すぐには続けなかった。


 レイラの顔。


 頭巾の奥へ隠された髪。


 胸元の革袋。


 包帯を巻いた左手。


 順番に見る。


 深い緑色の目に、昨日よりもはっきりした警戒と、別の感情が混ざっている。


 懐かしさ。


 あるいは、長いあいだ閉じていた扉を、外側から叩かれた者の戸惑い。


「森へ連れていく理由は、それだけですか」


 レイラは訊いた。


「それだけでは足りない」


 ルーウェンは答えた。


「だから、持っているものを見せるかどうかは、お前が決めろ」


 昨日と同じだった。


 見せろとは言わない。


 ただし、進むためには必要だと、誤魔化しもしない。


 レイラは、少しだけ息を整えた。


 革袋の口を開く。


 三枚の紙片。


 乾いたパン。


 薬草。


 銀貨。


 その奥へ折れないよう差し込まれた、白い鳥の羽根。


 指先で摘まみ、外へ出す。


 倉庫へ差し込む細い光の中で、羽根は思った以上に白かった。


 灰色の海。


 塩に汚れた壁。


 乾いた網。


 粗い木箱。


 その中へ置くと、ひどく場違いに見える。


 ルーウェンの表情が変わった。


 大きく息を呑んだわけではない。


 目を見開いたわけでもない。


 ただし、羽根へ伸ばしかけた手が、一度だけ止まった。


「触れてもよいですか」


 レイラが訊くより先に、ルーウェンが言った。


 昨日まで、命令形を崩さなかった男だった。


 その声だけが、わずかに慎重になっている。


「どうぞ」


 ルーウェンは羽根を受け取った。


 軸。


 根元。


 白い羽毛。


 縁。


 指先で確かめる。


「鳥の羽根にしか見えない」


 エッダが言った。


「鳥の羽根だ」


 ルーウェンは答えた。


「ただし、どの鳥でもよいわけではない。シルヴァス北境に近い森で、冬の終わりにだけ羽根を落とす白枝鳥。枝へ雪が残る頃に拾い、根元へ薄く樹脂を引く。昔、森の外へ誓約を渡す時に使われた」


「誓約?」


「約束を忘れないための印だ」


 ルーウェンは、羽根を光へ透かした。


 根元に、ごく薄い線がある。


 透明に近い樹脂。


 知らなければ、自然な艶にしか見えない。


「いまも使われているのですか」


 レイラが訊く。


「ほとんど使われない。少なくとも、俺が森を出る前から、儀礼の中へ残っていただけだ」


「百年前から?」


 エッダが口を挟む。


「正確には、もう少し前だ」


「先生」


「何だ」


「百年を少しで済ませないで」


「人間は、時間へ細かい」


 ルーウェンは羽根から目を離さなかった。


「これを、誰から」


「アルストラの修道女から。古い誓約があります、と言われました。本物と偽物の違いを知る者へ見せれば、助けるかもしれないとも」


「修道女の名は」


「聞いていません」


「聞かなかった?」


「聞ける状況ではありませんでした」


「そうか」


 ルーウェンは羽根をレイラへ返した。


「家名を訊いても」


 今度は、レイラが黙る。


 言えば、戻れない。


 マリアという名前は、港の宿帳へ埋もれるために使える。


 しかし、シルヴァスの門まで、マリアのまま進むことはできない。


 自分の名前を誰かへ渡す。


 それは、相手を信じることとは少し違う。


 自分が、その名前へ責任を持つということだ。


「レイラ」


 口にすると、十年間隠してきた音が、倉庫の中へ静かに落ちた。


「レイラ・ヴァン・リュカリオンです」


 エッダが、すぐには反応しなかった。


 名前の意味を知らないわけではないだろう。


 亡国の名。


 十年前に滅びた王家。


 港の噂話や、古い交易の記録へ残っている程度には、人々の記憶へ残る名前。


 ただし、エッダは驚いた顔をしたあとで、レイラを見た。


 元王女ではなく。


 六日間、船酔いに耐え、毛布を差し出し、ヨルンの水樽を動かし、子どもへ手を伸ばした女を見る目だった。


「マリアじゃなかったんだ」


 最初に出た言葉は、それだった。


「ごめんなさい」


「謝るところは、そこ?」


 エッダは少し困ったように笑う。


「まあ、いいけど。昨日までの話し方を考えると、少し納得した」


「隠すつもりは」


「隠してたでしょ」


「必要だったから」


「うん。必要だったなら、いい」


 エッダは黒パンの欠片を指先で弄びながら、息を吐いた。


「でも、港ではマリアのままね」


「分かってる」


「王女様って呼ぶと、目立つから」


 レイラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「助かる」


 ルーウェンは、二人のやり取りが終わるまで待っていた。


「リュカリオン」


 低い声で繰り返す。


「三百年前の誓約が、まだ完全には切れていないらしい」


「知っているのですか」


「伝承としては」


 ルーウェンは答えた。


「森の外で、旧王家へ流れた一枝がある。だが、人間の王家は代を重ねる。血は薄くなる。誓約も、必要とされなければ儀礼へ変わる」


「私には、その血が?」


「断定はしない」


 答えは早かった。


「羽根は、誓約の印だ。髪の色も、昨日の光も、偶然ではない可能性がある。ただし、森の外で俺一人が決めてよい話ではない」


「では、どうすれば」


「門へ行く」


 ルーウェンは言った。


「森が、答える」



 ──第五十六部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ