第五十六部 白い羽根と、百年ぶりの帰郷を決める話 ② 二度の戸叩きと、帰郷の決意
倉庫の戸が、外側から短く二度叩かれた。
次に、一度だけ間を置き、もう一度。
エッダが立ち上がる。
「先生」
「合図があるの?」
「昨日決めた」
エッダは戸の前へ行き、隙間から外を確かめてから閂を外した。
ルーウェンは、肩へ帆布の袋を掛け、片手には細長い木箱を持っていた。昨日と同じように、淡い金色の髪を首の後ろで束ねている。白金にも見える毛先には、港の風が運んだ細かな塩が残り、厚い毛織りの上着からは、薬草と樹脂の匂いがした。
「追跡者は」
エッダが訊く。
「三人とも港にいる。一人は記録小屋、二人は船主へ聞き回っている。銀貨を使い始めた」
「誰か話した?」
「北東から来た小舟が、六日前に港へ入ったという話は出ている。乗っていた者までは、まだ知られていない」
「時間の問題だね」
「ああ」
ルーウェンは答え、レイラを見る。
「歩けるか」
「歩けます」
「昨日も、似たことを言った」
「今日は、本当に」
「なら、試す必要はない」
ルーウェンは木箱を床へ置いた。
「潮が変わるのは、昼過ぎだ。港の西側に、干潮の時だけ抜けられる水路がある。ヨルンが舟を出す」
「先生も乗るの?」
エッダが訊く。
「そのつもりだ」
答えは短かった。
エッダの目が、わずかに大きくなる。
「港の外まで?」
「その先も」
「森まで?」
「必要なら」
ルーウェンは、あまり大きなことを言ったつもりはないように、淡々と帆布の袋を下ろした。
「家は?」
「しばらく空ける」
「薬は?」
「棚へ分けた。熱冷ましと咳止めは、お前の母親でも分かるよう印を付けた。怪我人が出たら、西通りのイーヴァンへ頼め。縫合は下手だが、死なせるほどではない」
「帆の修理は」
「急ぎでなければ待て」
「急ぎなら?」
「自分で縫え」
エッダは口を開き、しばらく何も言わなかった。
「本気なんだ」
「ああ」
ルーウェンは、床へ置いた細長い木箱の蓋を開けた。
中には、白金色の徽章と、古い革紐で束ねられた細身の杖が入っている。杖は武器というより、長く使い込まれた旅道具に見えた。表面には細かな傷があり、握る場所だけ色が深くなっている。
エッダは、徽章を見ると、見慣れないものへ触れるのを避けるように一歩だけ下がった。
「それ、何?」
「昔のものだ」
「先生の昔は、長いから分からない」
「分からなくていい」
ルーウェンは徽章を革袋へ入れ、杖を腰へ結び付けた。
その仕草に迷いはない。
ただし、慣れてもいなかった。
百年近く触れなかったものを、身体へ戻している。
レイラには、そう見えた。
「なぜ、そこまで」
問い掛けると、ルーウェンは少しだけ視線を動かした。
「昨日、海の中で何か見なかったか」
レイラの左手が、無意識に動く。
「光を」
「どんな」
「細い糸のようなもの。淡い金色で、網へ触れた気がする」
「気がする?」
「分かりません。自分が何をしたのかも」
「そうか」
ルーウェンは、それ以上すぐには続けなかった。
レイラの顔。
頭巾の奥へ隠された髪。
胸元の革袋。
包帯を巻いた左手。
順番に見る。
深い緑色の目に、昨日よりもはっきりした警戒と、別の感情が混ざっている。
懐かしさ。
あるいは、長いあいだ閉じていた扉を、外側から叩かれた者の戸惑い。
「森へ連れていく理由は、それだけですか」
レイラは訊いた。
「それだけでは足りない」
ルーウェンは答えた。
「だから、持っているものを見せるかどうかは、お前が決めろ」
昨日と同じだった。
見せろとは言わない。
ただし、進むためには必要だと、誤魔化しもしない。
レイラは、少しだけ息を整えた。
革袋の口を開く。
三枚の紙片。
乾いたパン。
薬草。
銀貨。
その奥へ折れないよう差し込まれた、白い鳥の羽根。
指先で摘まみ、外へ出す。
倉庫へ差し込む細い光の中で、羽根は思った以上に白かった。
灰色の海。
塩に汚れた壁。
乾いた網。
粗い木箱。
その中へ置くと、ひどく場違いに見える。
ルーウェンの表情が変わった。
大きく息を呑んだわけではない。
目を見開いたわけでもない。
ただし、羽根へ伸ばしかけた手が、一度だけ止まった。
「触れてもよいですか」
レイラが訊くより先に、ルーウェンが言った。
昨日まで、命令形を崩さなかった男だった。
その声だけが、わずかに慎重になっている。
「どうぞ」
ルーウェンは羽根を受け取った。
軸。
根元。
白い羽毛。
縁。
指先で確かめる。
「鳥の羽根にしか見えない」
エッダが言った。
「鳥の羽根だ」
ルーウェンは答えた。
「ただし、どの鳥でもよいわけではない。シルヴァス北境に近い森で、冬の終わりにだけ羽根を落とす白枝鳥。枝へ雪が残る頃に拾い、根元へ薄く樹脂を引く。昔、森の外へ誓約を渡す時に使われた」
「誓約?」
「約束を忘れないための印だ」
ルーウェンは、羽根を光へ透かした。
根元に、ごく薄い線がある。
透明に近い樹脂。
知らなければ、自然な艶にしか見えない。
「いまも使われているのですか」
レイラが訊く。
「ほとんど使われない。少なくとも、俺が森を出る前から、儀礼の中へ残っていただけだ」
「百年前から?」
エッダが口を挟む。
「正確には、もう少し前だ」
「先生」
「何だ」
「百年を少しで済ませないで」
「人間は、時間へ細かい」
ルーウェンは羽根から目を離さなかった。
「これを、誰から」
「アルストラの修道女から。古い誓約があります、と言われました。本物と偽物の違いを知る者へ見せれば、助けるかもしれないとも」
「修道女の名は」
「聞いていません」
「聞かなかった?」
「聞ける状況ではありませんでした」
「そうか」
ルーウェンは羽根をレイラへ返した。
「家名を訊いても」
今度は、レイラが黙る。
言えば、戻れない。
マリアという名前は、港の宿帳へ埋もれるために使える。
しかし、シルヴァスの門まで、マリアのまま進むことはできない。
自分の名前を誰かへ渡す。
それは、相手を信じることとは少し違う。
自分が、その名前へ責任を持つということだ。
「レイラ」
口にすると、十年間隠してきた音が、倉庫の中へ静かに落ちた。
「レイラ・ヴァン・リュカリオンです」
エッダが、すぐには反応しなかった。
名前の意味を知らないわけではないだろう。
亡国の名。
十年前に滅びた王家。
港の噂話や、古い交易の記録へ残っている程度には、人々の記憶へ残る名前。
ただし、エッダは驚いた顔をしたあとで、レイラを見た。
元王女ではなく。
六日間、船酔いに耐え、毛布を差し出し、ヨルンの水樽を動かし、子どもへ手を伸ばした女を見る目だった。
「マリアじゃなかったんだ」
最初に出た言葉は、それだった。
「ごめんなさい」
「謝るところは、そこ?」
エッダは少し困ったように笑う。
「まあ、いいけど。昨日までの話し方を考えると、少し納得した」
「隠すつもりは」
「隠してたでしょ」
「必要だったから」
「うん。必要だったなら、いい」
エッダは黒パンの欠片を指先で弄びながら、息を吐いた。
「でも、港ではマリアのままね」
「分かってる」
「王女様って呼ぶと、目立つから」
レイラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「助かる」
ルーウェンは、二人のやり取りが終わるまで待っていた。
「リュカリオン」
低い声で繰り返す。
「三百年前の誓約が、まだ完全には切れていないらしい」
「知っているのですか」
「伝承としては」
ルーウェンは答えた。
「森の外で、旧王家へ流れた一枝がある。だが、人間の王家は代を重ねる。血は薄くなる。誓約も、必要とされなければ儀礼へ変わる」
「私には、その血が?」
「断定はしない」
答えは早かった。
「羽根は、誓約の印だ。髪の色も、昨日の光も、偶然ではない可能性がある。ただし、森の外で俺一人が決めてよい話ではない」
「では、どうすれば」
「門へ行く」
ルーウェンは言った。
「森が、答える」
──第五十六部 了




