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第五十六部 白い羽根と、百年ぶりの帰郷を決める話 ① 坂の上の倉庫と、白い羽根

 坂の上にある小さな倉庫は、港から見れば、塩樽と古い漁網を押し込んだだけの物置にしか見えなかった。


 海側の壁には窓がなく、山側へ開いた細い明かり取りにも、外から中を覗けないよう麻布が垂らされている。床には乾いた海藻の匂いが染み込み、壁際へ積まれた木箱の隙間には、冬を越した鼠が残した小さな齧り跡があった。


 宿屋の寝台とは比べられない。


 それでも、追跡者が歩き回る港で、名を書かずに息を潜められる場所があるだけで十分だった。


 レイラは、木箱へ背を預けたまま、左手へ巻かれた布を見た。


 傷は浅い。


 酒で洗われた時は痛んだが、血は止まっている。


 問題は、手のひらではなかった。


 岸壁へ落ちた少年へ腕を伸ばした瞬間、海水の中で何かが光った。


 魚の鱗だったのかもしれない。


 朝日が水面へ反射しただけかもしれない。


 ただし、網が緩んだ。


 届かないはずだった少年の指が、わずかに浮いた。


 自分の指先から伸びたように見えた淡い金色の糸を、気のせいだと片付けるには、感触が鮮明すぎた。


 糸は、見えただけではない。


 一瞬だけ、指先の奥から何かを引かれた。


 身体の中へ細く流れていた熱が、知らない場所へ抜けていくような感覚だった。


「痛む?」


 向かい側へ座っていたエッダが訊いた。


 レイラは、手のひらから顔を上げた。


「傷は、もう大丈夫」


「傷は?」


「ほかに何かある?」


「ある顔をしてる」


 エッダは、倉庫へ持ち込んだ小さな籠から、黒パンと干し魚を取り出した。六日間の海路で互いの表情を少しずつ読めるようになったらしく、以前のように、レイラの言葉だけをそのまま受け取ることはない。


「海へ落ちた子を助けたあとから、ずっと左手を見てる」


「見てた?」


「見てた」


 レイラは、布の上から手のひらを包んだ。


「少し、不思議なことがあった気がする」


「不思議?」


「水の中で、光が見えた」


「魚じゃなくて?」


「そうかもしれない」


「魚は、よく光るよ」


 エッダは干し魚を半分に割りながら答えたが、その声音には、笑って済ませる軽さだけではなく、レイラが続きを話すなら聞くという余白が残されていた。


「ただ、網も緩んだ」


「波で?」


「たぶん」


「たぶんが多いね」


「自分でも、分からないから」


 エッダは少し考え、黒パンを一つ差し出した。


「だったら、ルーウェン先生に訊けばいい」


「分かるの?」


「先生は、だいたいのことを知ってる。知らない時も、知ってるみたいな顔をする」


「便利だね」


「本人に言うと、嫌な顔をするよ」


 レイラは黒パンを受け取り、ほんの少しだけ笑った。


 港へ来た翌朝には、追跡者が現れた。


 少年を助けたことで、自分の姿を見た者も増えた。


 長く隠れているほど、エッダとヨルンだけではなく、この港で何も知らずに暮らす者たちまで危険へ巻き込む。


 急ぐ必要がある。


 ただし、急ぐことと、焦ることは違う。


 六日間の海路で、ヨルンの背中から学んだことだった。


 レイラは胸元の革袋へ手を置いた。


 白い羽根は、まだ中にある。


 修道女は、本物と偽物の違いを知る者へ見せなさいと言った。


 ルーウェンはエルフであり、シルヴァスへ帰ろうと思えば帰れると答えた。森の門へ連絡を通す方法も知っている。


 それでも、見せるかどうかは、自分で決めなければならない。


「エッダ」


「何?」


「ルーウェンさんを、信用してる?」


 問い掛けると、エッダは干し魚を噛みながら、すぐには答えなかった。


 長く考え込んだわけではない。


 ただし、相手が友人だからといって、軽く肯定することもしなかった。


「薬に変なものを混ぜない。船の傷を見落とさない。お金がない家の子どもからは、魚一尾で薬代を取ったことにする。酔っ払いには厳しいし、嘘が下手な人にも厳しい」


「最後は、私のこと?」


「たぶん」


 エッダは笑う。


「でも、森のことは分からない。先生が昔どこにいたのかも、全部は知らない。お婆ちゃんが子どもの頃から顔が変わってないのは、少し気味が悪いと思ってる」


「本人の前では?」


「言ったことある」


「強いね」


「怒らなかったよ。人間はすぐ年齢を気にするって、面倒そうな顔をしただけ」


 レイラは、革袋の紐へ指を掛けた。


「では、会ってから決める」


「うん」


 エッダは、それ以上勧めなかった。


 助けることも。


 信じることも。


 名前を渡すことも。


 最後は、本人が決める。


 フィヨルドでは、それが当たり前なのだろう。



 ──第五十六部 了


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