表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

290/304

第五十五部 マリアと、白い羽根をまだ見せない話 ④ 変わる港の空気と、動かないルーウェン

 ルーウェンの家を出ると、港の空気は少し変わっていた。


 朝から記録小屋にいた男たちは、船主、魚商人、宿屋の主人へ順番に話を聞いている。港務番の印がないため、強引に船を開けることはできない。


 ただし、人の口は、紙より軽い。


 銀貨を見せれば、話す者は出る。


「網小屋には戻れない」


 エッダが言った。


「分かってる」


「坂の上に、小さい倉庫がある。母さんの従姉妹が使ってる。夕方までなら、そこへ隠れられる」


「迷惑を掛ける」


「もう掛かってる」


「昨日から、そればかり」


「事実だから」


 エッダは歩みを止め、レイラを見る。


「それに、ニルが落ちた時、あんたは逃げられた」


「子どもが落ちた」


「うん」


「なら、手を伸ばす」


「そういうところ」


 エッダは言った。


「事情を全部聞いたわけじゃない。でも、逃げてるのに、先に子どもへ手を伸ばす人を、港へ置いていけない」


「危険だよ」


「知ってる」


「お父さんも、港の人たちも」


「それも、分かってる」


 エッダは、少しだけ表情を引き締めた。


「でも、助けるかどうかは、私も決める」


 朝の風が、二人の間を抜ける。


 赤茶色の髪が、少し揺れた。


「船に乗る人が、自分で決める。海の上で何かあった時、遠くの偉い人が帆を畳んでくれるわけじゃないから」


 フィヨルドの言葉なのだろう。


 レイラは、すぐには答えられなかった。


 自分は長いあいだ、誰も巻き込まないために逃げてきた。


 だが、本当に誰も巻き込まずに進める道など、最初からなかった。


 修道女が裏門を開けた。


 荷車を動かす男が、魚籠の間へ隠した。


 ヨルンが小舟を出した。


 エッダが毛布を受け取り、網小屋を貸した。


 港務番の老人が、外から来た紙へ簡単には従わなかった。


 ルーウェンが、少年の網を切った。


 一人では、ここまで来られない。


 だからこそ、受け取ったものを当然だと思ってはいけない。


 危険を隠しすぎてもいけない。


 自分も、必要な時には手を伸ばす。


「ありがと」


 レイラは言い、頭を下げた。


 深すぎた。


 エッダが、少しだけ目を細める。


「また、王女様みたいになってる」


 レイラの呼吸が、一瞬だけ止まった。


 エッダは吹き出した。


「冗談」


「驚いた」


「そういう顔には見えない」


「顔へ出すのが、得意ではないから」


「じゃあ、練習した方がいい」


 エッダは先に歩き始めた。


「マリアは、隠すのは上手だけど、普通にするのは下手」


「難しいね」


「少しずつでいいよ」


 レイラは、その背中を追った。


 マリアと呼ばれることにも。


 誰かへ頼ることにも。


 誰かが、自分の意思で助けると決めてくれることにも。


 まだ、慣れていない。


 それでも、少しずつでよいのかもしれない。



 ◇



 レイラとエッダが家を出たあと、ルーウェンはしばらく動かなかった。


 暖炉の火が、鍋の底を小さく鳴らしている。


 机の上には、血を拭った布、酒の匂い、切った包帯の端が残っている。港の朝なら、珍しくもないものばかりだった。


 ただし、海水の中で見たものだけは違う。


 淡い金色の糸。


 ほんの一瞬。


 見間違いと片付けてもよいほど、弱い光だった。


 だが、ルーウェンは知っている。


 森の奥で、古い血を引く者が、誰かを守ろうとした時にだけ現れる光を。


 最後に見たのは、いつだったか。


 百年より前。


 いや、もう少し昔かもしれない。


 ルーウェンは棚の最下段へ手を伸ばし、帆布と古い地図の下から、小さな木箱を取り出した。


 長く開けていない。


 蓋には、葉を重ねた古い紋様が刻まれている。


 指で触れると、埃が薄く落ちた。


 箱の中には、白金色の細い徽章が一つ。


 シルヴァスを離れた日から、一度も使っていない。


 帰れないわけではなかった。


 帰らなかった。


 海を見たかった。


 人間の港で、帆を縫い、薬を煎じ、子どもの熱を診る生活が気に入った。


 森の中で、誰がどの枝へ連なり、誰がどの席へ座り、誰がどの古い誓約を守るべきかと議論する日々へ、戻る理由はないと思っていた。


 だが、淡い金色の髪を隠した人間の娘が、追跡者の目の前で子どもへ手を伸ばした。


 海水の中へ、古い光が現れた。


 そして、その娘はシルヴァスへ行きたいと言った。


「百年か」


 ルーウェンは、小さく呟いた。


 人間にとっては、長すぎる時間。


 エルフにとっても、決して短くはない。


 それでも、帰る時期を逃したと言い張るには、そろそろ無理がある。


 ルーウェンは箱を閉じなかった。


 窓の外では、ローヴィク港の秤が、また一つ音を立てた。


 魚は重さを量られる。


 銀貨も。


 人の名も。


 古い血も。


 そして、三百年前の約束も。


 白い羽根は、まだレイラの革袋の中にある。


 ルーウェンは、まだ見ていない。


 それでも、百年ぶりに森へ戻る理由は、もう港へ流れ着いていた。



 ──第五十五部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ