第五十五部 マリアと、白い羽根をまだ見せない話 ④ 変わる港の空気と、動かないルーウェン
ルーウェンの家を出ると、港の空気は少し変わっていた。
朝から記録小屋にいた男たちは、船主、魚商人、宿屋の主人へ順番に話を聞いている。港務番の印がないため、強引に船を開けることはできない。
ただし、人の口は、紙より軽い。
銀貨を見せれば、話す者は出る。
「網小屋には戻れない」
エッダが言った。
「分かってる」
「坂の上に、小さい倉庫がある。母さんの従姉妹が使ってる。夕方までなら、そこへ隠れられる」
「迷惑を掛ける」
「もう掛かってる」
「昨日から、そればかり」
「事実だから」
エッダは歩みを止め、レイラを見る。
「それに、ニルが落ちた時、あんたは逃げられた」
「子どもが落ちた」
「うん」
「なら、手を伸ばす」
「そういうところ」
エッダは言った。
「事情を全部聞いたわけじゃない。でも、逃げてるのに、先に子どもへ手を伸ばす人を、港へ置いていけない」
「危険だよ」
「知ってる」
「お父さんも、港の人たちも」
「それも、分かってる」
エッダは、少しだけ表情を引き締めた。
「でも、助けるかどうかは、私も決める」
朝の風が、二人の間を抜ける。
赤茶色の髪が、少し揺れた。
「船に乗る人が、自分で決める。海の上で何かあった時、遠くの偉い人が帆を畳んでくれるわけじゃないから」
フィヨルドの言葉なのだろう。
レイラは、すぐには答えられなかった。
自分は長いあいだ、誰も巻き込まないために逃げてきた。
だが、本当に誰も巻き込まずに進める道など、最初からなかった。
修道女が裏門を開けた。
荷車を動かす男が、魚籠の間へ隠した。
ヨルンが小舟を出した。
エッダが毛布を受け取り、網小屋を貸した。
港務番の老人が、外から来た紙へ簡単には従わなかった。
ルーウェンが、少年の網を切った。
一人では、ここまで来られない。
だからこそ、受け取ったものを当然だと思ってはいけない。
危険を隠しすぎてもいけない。
自分も、必要な時には手を伸ばす。
「ありがと」
レイラは言い、頭を下げた。
深すぎた。
エッダが、少しだけ目を細める。
「また、王女様みたいになってる」
レイラの呼吸が、一瞬だけ止まった。
エッダは吹き出した。
「冗談」
「驚いた」
「そういう顔には見えない」
「顔へ出すのが、得意ではないから」
「じゃあ、練習した方がいい」
エッダは先に歩き始めた。
「マリアは、隠すのは上手だけど、普通にするのは下手」
「難しいね」
「少しずつでいいよ」
レイラは、その背中を追った。
マリアと呼ばれることにも。
誰かへ頼ることにも。
誰かが、自分の意思で助けると決めてくれることにも。
まだ、慣れていない。
それでも、少しずつでよいのかもしれない。
◇
レイラとエッダが家を出たあと、ルーウェンはしばらく動かなかった。
暖炉の火が、鍋の底を小さく鳴らしている。
机の上には、血を拭った布、酒の匂い、切った包帯の端が残っている。港の朝なら、珍しくもないものばかりだった。
ただし、海水の中で見たものだけは違う。
淡い金色の糸。
ほんの一瞬。
見間違いと片付けてもよいほど、弱い光だった。
だが、ルーウェンは知っている。
森の奥で、古い血を引く者が、誰かを守ろうとした時にだけ現れる光を。
最後に見たのは、いつだったか。
百年より前。
いや、もう少し昔かもしれない。
ルーウェンは棚の最下段へ手を伸ばし、帆布と古い地図の下から、小さな木箱を取り出した。
長く開けていない。
蓋には、葉を重ねた古い紋様が刻まれている。
指で触れると、埃が薄く落ちた。
箱の中には、白金色の細い徽章が一つ。
シルヴァスを離れた日から、一度も使っていない。
帰れないわけではなかった。
帰らなかった。
海を見たかった。
人間の港で、帆を縫い、薬を煎じ、子どもの熱を診る生活が気に入った。
森の中で、誰がどの枝へ連なり、誰がどの席へ座り、誰がどの古い誓約を守るべきかと議論する日々へ、戻る理由はないと思っていた。
だが、淡い金色の髪を隠した人間の娘が、追跡者の目の前で子どもへ手を伸ばした。
海水の中へ、古い光が現れた。
そして、その娘はシルヴァスへ行きたいと言った。
「百年か」
ルーウェンは、小さく呟いた。
人間にとっては、長すぎる時間。
エルフにとっても、決して短くはない。
それでも、帰る時期を逃したと言い張るには、そろそろ無理がある。
ルーウェンは箱を閉じなかった。
窓の外では、ローヴィク港の秤が、また一つ音を立てた。
魚は重さを量られる。
銀貨も。
人の名も。
古い血も。
そして、三百年前の約束も。
白い羽根は、まだレイラの革袋の中にある。
ルーウェンは、まだ見ていない。
それでも、百年ぶりに森へ戻る理由は、もう港へ流れ着いていた。
──第五十五部 了




