第五十五部 マリアと、白い羽根をまだ見せない話 ③ 網を切った男と、ルーウェンの家
少年の網を切った男は、人間ではなかった。
背は高い。
ただし、細いだけではない。長く帆布と縄を扱ってきた者らしく、肩から腕へ掛けて無駄のない筋肉があり、海水へ濡れた指先には樹脂と糸で荒れた跡が残っている。
淡い金色の髪を、首の後ろで一つに束ねていた。
色は薄く、曇った港の光の下では、白金にも見える。
厚い毛織りの上着には、帆布を切って当てた補修跡がいくつもあり、腰には小さな薬草袋と糸巻きが下がっている。
生活の中へ溶け込んだ服装だった。
ただし、耳は人間より長く、先端がわずかに尖っている。
深い緑色の目だけが、港の誰とも違っていた。
エルフ。
レイラが実際に目にするのは、初めてだった。
「左手を見せろ」
男は言った。
「少年を先に」
「あの子は母親が連れていく。お前は血が出ている」
言われて初めて、レイラは自分の手を見る。
掌へ細い傷が走っていた。濡れた板へ手をついた時、網の金具か、魚籠の破片が当たったらしい。
「この程度なら」
「海水が入った」
「洗えば」
「洗うために来い」
静かな声だった。
だが、反論を受け入れる気はない。
エッダが、散った魚を籠へ戻しながら笑った。
「諦めた方がいいよ。ルーウェン先生に捕まったら、港務番でも言うことを聞く」
「先生?」
「薬師。帆も直すし、網も直す。冬は子どもの咳も診る。母さんが子どもの頃も、同じ顔で薬を作ってたらしい」
「余計なことを言うな」
ルーウェンは答えた。
「本当でしょ」
「本当でも、いま必要ではない」
エッダは肩を竦める。
ルーウェン。
レイラは、その名を覚えた。
ルーウェンはレイラの掌へ布を当てながら、一度だけ海面を見た。
すでに、光は消えている。
誰も気づかなかったらしい。
少年の母親も。
エッダも。
追跡者も。
だが、ルーウェンは見ていた。
海水の中で、網が切られるより先に緩んだことを。
人間の娘の指先から、淡い金色の糸が一瞬だけ伸びたことを。
◇
ルーウェンの家は、港の外れにあった。
厚い石壁の小さな建物で、海側の窓には、嵐へ備えた板戸が付いている。室内には、乾燥させた薬草、魚油、樹脂、細い針、糸巻き、帆布、木片、地図が、用途ごとに分けて置かれていた。
薬師の家。
帆を直す職人の家。
船乗りのために地図を写す者の家。
どれか一つではない。
長く同じ土地で暮らし、必要とされた仕事を少しずつ覚えた者の家だった。
「座れ」
ルーウェンが言った。
レイラは木製の椅子へ腰を下ろす。
掌の傷へ酒を掛けられた。
痛い。
思わず眉が寄る。
「痛むか」
「少しだけ」
「少しだけ、と言う人間は信用しない」
「なぜですか」
「本当に少しなら、先に言い訳をしない」
レイラは、少し黙った。
「厳しいですね」
「傷へは、厳しい方がいい」
ルーウェンは、細い布を掌へ巻き、手早く結ぶ。
「少年を助けたのは、お前だ」
「網を切らなければ、引き上げられませんでした」
「一人で引こうとした」
「考える時間がありませんでした」
「考える時間がない時に、先に身体が動く」
ルーウェンは、布の端を整えながら言った。
「面倒な人間だ」
少しだけ、兄について言われたような気がした。
レイラは答えなかった。
エッダは、少年の母親から礼として渡された魚を暖炉の近くへ置き、勝手知った様子で湯を沸かしている。
「ルーウェン先生」
「何だ」
「マリアは、森へ行きたいんだって」
ルーウェンの手が、ほんの少しだけ止まった。
「どの森だ」
「西の森」
「曖昧に言うな」
「シルヴァス神聖王国です」
レイラが答えた。
深い緑色の目が、こちらへ向く。
「なぜ」
普通なら、不審に思う。
北東の島から小舟で渡ってきた、見慣れない女。
追跡者がいる。
頭巾の下へ、淡い金髪を隠している。
書類袋を持ち、フィヨルドを越え、その先にある閉ざされた森の国へ入りたいと言う。
まともな旅人ではない。
レイラは、左手へ巻かれた布を見た。
嘘を重ねれば、助けてくれる者へ危険だけを押し付ける。
ただし、すべてを話せば、その者を逃げられなくする。
どこまで渡すべきか。
名前も。
事情も。
白い羽根も。
自分で選ばなければならない。
「古い約束を、確かめたいのです」
レイラは答えた。
「誰との約束だ」
「私の家と、シルヴァスとの間に結ばれたものです」
「家名は」
レイラは、すぐには答えなかった。
革袋へ触れる。
中には白い羽根がある。
修道女は言った。
本物と偽物の違いを知る者へ見せなさい。
助けるかもしれない、と。
目の前にいるエルフは、シルヴァスへつながる者なのだろう。
ただし、だからこそ、急いで見せてよいとは限らない。
「その前に、一つ訊いてもよいですか」
レイラは言った。
「何だ」
「あなたは、シルヴァスの方ですか」
ルーウェンは、少しだけ目を細めた。
「見れば分かるだろう」
「エルフであることは」
「なら、何を訊いている」
「森へ帰れる方なのか、それとも、帰れない方なのか」
室内が静かになる。
暖炉の火が、小さく鳴った。
エッダも、湯を注ぐ手を止めた。
ルーウェンは、しばらくレイラを見たあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「帰ろうと思えば、帰れる」
「では、なぜフィヨルドに」
「海を見たかった」
答えは、意外なほど単純だった。
「森の中だけで世界を知ったつもりになるのが、嫌になった。外へ出て、船へ乗り、最初の冬に死にかけ、次の冬に帆の縫い方を覚え、その次には帰る時期を逃した」
エッダが笑う。
「次どころじゃないけどね」
「余計なことを言うな」
「私のお婆ちゃんが子どもの頃からいるんでしょ」
「エッダ」
「はいはい」
ルーウェンは小さく息を吐き、レイラへ向き直る。
「森へ向かう道は知っている。ただし、知っているだけで入れるわけではない」
「門がある」
「ある」
「古い約束が残っていても?」
「古い約束ほど、見せる相手を選べ」
レイラの指が、革袋の上で止まった。
修道女と同じような言葉だった。
ルーウェンは、革袋を見ようとしない。
奪おうともしない。
何を持っているのか、問い詰めもしない。
「見せる相手を、選んでいます」
レイラは答えた。
「それでいい」
ルーウェンは頷いた。
「今日は、まだ見せなくていい」
「よいのですか」
「俺を信用できると思った時に見せろ。信用できないなら、そのまま隠しておけ」
「それでも、道を教えてくださいますか」
「港の外までなら」
ルーウェンは机の端へ置かれた地図を広げた。
ローヴィク港。
岩礁。
潮の流れ。
西側へ続く細い入り江。
さらに、その先にある大陸沿岸。
「朝の三人は、通常の船を調べる。潮が引いた時だけ通れる水路を使え。ヨルンなら抜けられる」
「父に頼むつもりだった」
エッダが言った。
「先に言え」
「先生が何か知ってる顔をしたから」
「知っている顔とは何だ」
「いまの顔」
ルーウェンは何も答えなかった。
レイラは地図を見る。
通常の道ではない。
誰かが用意してくれなければ、選ぶことのできない道。
「そこから先は」
「明日までに考える」
ルーウェンは答えた。
「森へ近づくなら、門へ連絡を通す必要がある」
「知り合いが?」
「昔の知人がいる。まだ同じ役目かは知らない」
「どのくらい昔ですか」
エッダが訊いた。
ルーウェンは、一度だけ考えた。
「少し前だ」
「先生の少し前は、信用できない」
「人間は、時間を細かく分けすぎる」
エッダは呆れたように肩を竦めた。
レイラは、そのやり取りを見ながら、少しだけ呼吸を緩めた。
追われている。
急ぐ必要がある。
それでも、すべてを一度に決める必要はない。
白い羽根は、まだ革袋の中にある。
見せる時を、自分で選ぶ。
名前を渡す時も。
──第五十五部 了




