第五十五部 マリアと、白い羽根をまだ見せない話 ② 六日目の夕方と、ローヴィク港
アルストラを離れてから、六日目の夕方。
フィヨルド諸島同盟の外縁にあるローヴィク港へ着いた時には、西の空から赤みが失われ始めていた。
六日間、島影と岩礁を拾い、風が荒れれば入り江へ逃げ込み、不審な船影がないことを確かめながら進んだ。直線距離だけを見れば、もっと早く着けたかもしれない。
だが、急ぐことと、無事に着くことは同じではない。
海面へ低く垂れ込めた雲の下で、港は風へ身を伏せるように作られていた。石壁の家々は互いへ寄り添い、屋根の端には漁網、流木、乾燥させた海藻が括り付けられている。入り江には十数隻の小舟が並び、岸壁へ置かれた魚籠から、潮と塩と魚油の匂いが立ち上っていた。
華やかな場所ではない。
だが、生活の音がする。
縄を巻く音。
木箱の蓋を閉める音。
明日の出港を相談する声。
夕食用の鍋を火へ掛ける匂い。
レイラは舟から降りようとした。
足元が揺れる。
六日間も海へ揺られ続けたせいで、靴底は石畳へ着いているのに、身体の奥だけがまだ舟へ残っていた。
エッダが横から腕を支える。
「立てる?」
「立てる」
「歩ける?」
レイラは一歩進んだ。
二歩目も。
三歩目で、膝が少し揺れた。
「少し休めば」
「休む場所を探す」
「宿へ行く?」
エッダが訊いた。
レイラは、港の奥へ視線を向けた。
宿屋らしい建物はある。
灯りも見える。
ただし、宿帳へ名を書く必要がある。
よそ者が一人で泊まれば、誰かの記憶へ残る。
エッダは、レイラの顔を見ると、何も聞かずに言った。
「網小屋の二階なら、空いてる」
「いいの?」
「乾いた網と古い毛布しかないけど、宿帳はない」
「迷惑を掛ける」
「もう掛かってる」
エッダは、六日間の海風で少し荒れた自分の頬を撫でた。
「毛布も借りたし、縄もまとめてもらった。お父さんの水樽も動かしてもらった」
「それは、私が勝手に」
「分かってる」
「代金を払う」
「いらない」
「では、仕事を」
「明日の朝、立てたらね」
エッダはそう言い、少しだけ笑った。
修道院から乗せてもらった見知らぬ女。
事情を話さない逃亡者。
普通なら、関わりたくないはずだ。
それでも、エッダは網小屋の二階へ案内してくれた。
理由は、一つではない。
修道院を信頼しているから。
ヨルンが、余計なことを訊かずに舟を出したから。
六日間、狭い小舟と漁師小屋で同じ時間を過ごしたから。
そして、エッダ自身が、助けると決めたから。
誰かの善意を受け取ることは、いまでも苦手だった。
自分のせいで、その人まで危険へ近づく。
そう思うと、申し訳なさが先へ立つ。
だが、一人では海を渡れない。
一人では、森へも入れない。
レイラは網小屋の階段を上がり、乾いた網の匂いが残る狭い場所で、革袋を抱いたまま横になった。
眠りへ落ちる直前まで、白い羽根の感触が掌へ残っていた。
◇
翌朝、ローヴィク港は、魚を量る秤の錘が木台へ落ちる音から始まった。
乾いた音が一つ鳴るたび、夜明け前に戻った舟から銀色の魚が籠ごと運び出され、濡れた石畳の上では、海藻、塩、薪の煙が混ざった匂いが低く漂っている。
レイラは、自然に目を覚ましたわけではない。
床板の下から聞こえる足音の数が、昨日までとは違っていた。
一人が止まる。
少し間を置き、二人が追いつく。
また歩く。
港で働く者の足音は、もっと迷いがない。濡れた石を避ける前に、どこへ足を置けば滑らないかを身体で知っている。
いま網小屋の前を通り過ぎた者たちは、海辺の人間らしく見せようとしている。
ただし、歩き方までは変えられない。
陸路を長く歩いた者の靴音だった。
「起きてる?」
階段の下から、エッダの声がした。
「起きてる」
「昨日より、かなりまし」
エッダが顔を出した。
赤茶色の髪は、すでに後ろで束ねられている。両手には、粗い頭巾と魚籠を持っていた。
「港に、変な客が来た。三人。朝の船へ乗るわけでもないのに、北東の島から来た女を見なかったかって聞いて回ってる」
「年齢は?」
「二十二くらい。痩せていて、一人旅に慣れていない。灰色か、くすんだ青の外套。古い紙を持ってるかもしれないって」
二十二歳。
三年前なら、合っていた。
敵が持つ記録は、少し古い。
「知っている人?」
エッダが訊いた。
「会いたくない人たち」
「そう」
それ以上は問わなかった。
ただし、魚籠と頭巾を差し出す。
「髪を隠して。あと、これを持つ」
「魚?」
「鱈。昨日の残り」
「匂いが」
「付いてる方がいい。逃げてきたお嬢さんより、魚を運ぶ女に見える」
レイラは頭巾を受け取り、淡い金色の髪を押し込んだ。
肩の辺りまで切った髪は、王宮にいた頃よりかなり短い。それでも、布の隙間から光が漏れるように色が覗く。
リュカリオン王家の中でも、レイラの髪は少し淡かった。
幼い頃、母から、遠い祖先に異国から来た女性がいたと聞いたことがある。
ただし、その血が何を意味するのかは知らない。
自分の髪に、三百年前の記憶が残っていることも。
「マリア」
エッダが言った。
「何?」
「それでいい」
エッダは頷き、先に階段を下りた。
◇
朝の港では、誰もが忙しい。
入り江へ戻った小舟から魚を降ろし、秤へ載せ、塩へ漬ける分と、その日の市場へ出す分を分けていく。外から来た三人の男が紙を持って歩いていても、手を止める者は少ない。
港の記録小屋の前で、男の一人が老人へ紙を見せていた。
「北東の島領から来た女を探している」
「それで?」
記録係の老人は、魚の売買を記した板へ目を落としたまま答えた。
「昨日から今日にかけて、入港した舟の記録を見せてほしい」
「港務番の印は」
「急いでいる」
「印は」
男の顔が、わずかに硬くなる。
「病人か、逃亡者の可能性がある」
「病人なら薬師へ行け。逃亡者なら、誰から逃げているかを書け」
「古い紙を持っている」
「紙なら、ここにもある」
周囲から、小さな笑いが漏れた。
老人は、ようやく顔を上げる。
「ここは帝国でも、王国でもない。フィヨルドの帳面を見たいなら、フィヨルドの手順を踏め」
男は笑わなかった。
エッダは、レイラへ視線を向けずに歩く。
「左を見ないで」
小さな声だった。
レイラも顔を上げない。
魚籠は重い。
麻布の隙間から塩の匂いが強く立ち上る。
「マリア、そっちを少し上げて」
「分かった」
「昨日みたいに丁寧に言わない」
「分かったよ」
「それなら、港の女に見える」
エッダが笑う。
レイラも、少しだけ口元を緩めた。
追跡者の視線が、一度だけ背中へ触れた。
頭巾。
粗末な外套。
魚籠。
塩の匂い。
疲れた歩き方。
少なくとも、いまのところ、亡国の王女には見えない。
記録小屋の前を通り過ぎ、岸壁の端へ差し掛かった時だった。
木箱の陰から、小さな子どもが飛び出した。
十歳にも満たない少年。
両手には、魚を入れた小さな籠を抱えている。
「ニル、走るな!」
誰かが叫んだ。
少年が振り返る。
足元の板は濡れている。
靴底が滑った。
籠が宙へ浮き、魚が散り、細い身体が岸壁と小舟の隙間へ落ちた。
考える時間はなかった。
レイラは、自分が持っていた魚籠を手放した。
石畳へ膝をつき、海面へ身体を乗り出す。
「手を!」
少年の顔が、一度だけ水面へ出る。
指が空を掻く。
届かない。
レイラは、さらに腕を伸ばした。
その瞬間、海水の中で、何かが細く光った。
金色の糸。
そう見えた。
朝の光が、水面へ反射しただけかもしれない。
波の間へ沈んだ魚の鱗が、光を返しただけかもしれない。
だが、少年の足へ絡み付いていた網が、ほんの少しだけ緩んだ。
届かないはずだった指先が、わずかに浮く。
レイラは、その手首を掴んだ。
細い腕へ、少年一人分の重さが掛かる。
引き上げられない。
足元の板が軋む。
「離すな」
低い声が、すぐ横から聞こえた。
誰かがレイラの腰を片腕で支え、もう片方の手で短い刃物を抜いた。
海水へ腕を入れる。
絡んだ網を切る。
抵抗が消えた。
レイラは少年の腕を引き、背後から伸びた力と一緒に、濡れた身体を岸壁へ引き上げた。
少年は石畳へ転がり、激しく咳き込む。
海水。
泣き声。
駆け寄る足音。
母親らしい女が、少年の身体を抱き締めた。
「ニル!」
「意識はあります。濡れた服を脱がせて、火の近くへ。水を飲んでいるので、咳が続くようなら薬師に診せてください」
レイラは、自分でも気づかないうちに、昔習った言葉を整えていた。
周囲が、わずかに静かになる。
港の女としては、少し整いすぎた声だった。
エッダが、落ちた魚籠を拾いながらレイラを見る。
「マリア」
「魚も、拾わないと」
「いま?」
「売り物でしょう」
「また、言い訳する?」
六日間を一緒に過ごした声だった。
責めてはいない。
少しだけ、笑っている。
レイラは、岸壁へ散った魚と、母親へ抱き締められる少年を見た。
それから、観念したように息を吐く。
「手が、勝手に動いた」
「それでいい」
エッダは言った。
レイラの口元が、ほんの少しだけ緩む。
片方の口角だけが、先に上がる。
自分では気づかない、その笑い方は、兄によく似ていた。
──第五十五部 了




