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第五十五部 マリアと、白い羽根をまだ見せない話 ① マリアという名と、修道院を離れて

 名を問われれば、マリアと答える。


 港の宿帳へ書かれても、荷運びの名簿へ混ざっても、誰かが特別な意味を見いだすことのない、ありふれた名前だった。追跡者が帳面を一枚ずつ確かめたとしても、マリアという三文字だけでは、十年前に滅びた国の王女へたどり着けない。


 本当の名は、レイラ・ヴァン・リュカリオン。


 二十五歳。元王女。現在は逃亡者。


 十五歳まで、レイラには国があった。


 父がいて、母がいて、三歳年上の兄がいた。城の回廊を歩けば、顔を知る侍女や衛兵が頭を下げ、窓の外には季節ごとに色を変える庭が広がっていた。王女として覚えなければならないことは多く、礼儀作法の教師に背筋の角度を直され、隣国の系譜を暗記させられ、兄が抜け出した剣術の講義へ付き合わされたこともある。


 当時は、退屈だと思っていた。


 退屈だと不満を言える程度には、穏やかな日々だった。


 兄は、十八歳で戦場へ出た。


 出征前の朝も、怖がっているようには見えなかった。軍装を着て、まだ少年らしさの残る顔で笑い、帰ったら厨房へ入り、菓子の品質確認をしなければならないと言った。


 毒がないか確かめるのは、王子の務めだ。


 兄はそう言い張り、厨房から持ち出した焼き菓子を半分だけ自分で食べ、残りをレイラへ渡した。


 下手な言い訳だった。


 それでも、十五歳のレイラは笑った。


 その兄は、帰らなかった。


 戦場で敗れ、死んだと聞かされた。遺体は戻らず、墓へ納めるものもなかった。それから間もなく、グランデル帝国軍がリュカリオンへ入り、父は処刑され、城も、国も、レイラが王女でいられた場所も失われた。


 十年が過ぎた。


 兄が生きていると信じられる根拠は、何一つない。


 戦場で死んだ。


 そう考えなければ、あまりにも長い時間だった。


 それでも、遺体を見ていないという事実だけが、胸の奥のごく小さな場所へ残り続けた。願いと呼ぶには弱く、諦めと呼ぶには形がありすぎる、扱いに困る欠片だった。


 もしかしたら。


 その先は、いつも考えないようにしてきた。


 レイラは知らない。


 兄が戦場で死なず、帝国軍の捕虜となったことも、その後、奴隷として強制労働施設へ送られたことも、三年後に家令によって救い出されたことも。


 傷だらけの傭兵として、いまも生きていることも。


 兄が知っている妹は、十五歳のまま。


 妹が知っている兄は、十八歳のまま。


 二人の間には、十年分の道が残っている。



 ◇



 アルストラ諸島の外れにある白い修道院を離れた朝、レイラは干し魚を積んだ荷車の奥で、胸元へ革袋を抱えながら膝を折っていた。


 荷台には粗い布が掛けられ、外から見れば、市場へ運ばれる魚籠と麻袋しか載っていないように見える。実際には、塩と魚油の匂いが染み付いた籠の隙間へ、一人の女が身体を押し込み、車輪が石を踏むたびに肩を揺らしていた。


 革袋の中には、三枚の紙片がある。


 青い細線が入った紙。


 円の中へ目を描いた印が透けた紙。


 古い「リュ」の符号が隠れていた紙。


 それから、年配の修道女から渡された、本物の白い鳥の羽根。


 乾いたパン、薬草、小さな銀貨も入っている。


 どれも軽い。


 それでも、捨てることはできなかった。


 燃やせば安全になるかもしれない。だが、燃やせば、自分を追う手がどこまで伸びているのかを確かめる術も失う。


 怖いものは、持っていた方が怖くない時がある。


 兄なら、もっと雑な言い方をしただろう。


 軽いものほど、あとで面倒になる。


 たぶん、その程度の言葉で。


 荷車が石畳を下るたび、魚籠が小さく軋んだ。遠くでは、修道院の表門へ着いた男たちの声が聞こえている。


 サレーネ船団の使いだ。


 保護者へ会わせろ。


 丁寧ではあるが、急いでいる。


 使者ではない。


 レイラが紙に記された人物と同じ女なのかを、確かめに来た者だ。


 白い鳥の印には、足のように見える青い細線が一本だけ加えられている。


 修道院の鐘が三度鳴り、荷車を引く馬の歩みが少し速くなった。


 表門の声が遠ざかる。


 葡萄棚の間を抜け、北へ延びる坂を下り、荷車は白い石壁の見えない場所まで進んだ。


 やがて、海の匂いが濃くなる。


 誰も記録を取らない、小さな入り江。


 波に削られた岩場の陰へ、古い小舟が一艘だけ浮かんでいた。


 荷車が止まる。


 外から布が持ち上げられ、朝の光が細く入った。


「降りられますか」


 荷車を動かしていた男が、声を落として訊いた。


「はい」


 レイラは答え、魚籠へ肩をぶつけないように身体を滑らせた。


 長いあいだ狭い荷台へ隠れていたため、足へ力が入りにくい。岩へ靴底を下ろした瞬間、膝がわずかに揺れた。


 転ぶほどではない。


 少なくとも、自分一人なら、そう言い張れた。


「無理をしないで」


 小舟から声が飛んできた。


 若い女だった。


 二十代の前半だろう。赤茶色の髪を後ろで一つに束ね、厚い毛織りの上着の袖を肘まで捲っている。飾り気はないが、海風へ逆らわずに立つ姿勢と、舟の縁へ掛けた指の強さには、長く船へ乗ってきた者の安定感があった。


「立てます」


 レイラが答えると、女は少しだけ眉を上げた。


「立てる人は、岩の上でそんなに慎重に息をしない」


「少し、足が痺れただけです」


「そういうことにしておく」


 女は舟から降りると、レイラの革袋ではなく、肘の少し上へ手を添えた。必要以上に触れず、それでも転びそうになれば支えられる距離だった。


「エッダ」


 女は短く名乗った。


「父はヨルン。舟を出すのは父だけど、帆と積荷は私が見る」


 舟の後ろでは、白髪の混ざった髭の男が、黙ったまま櫂と縄を確かめていた。日焼けした顔には深い皺があり、片脚を動かす時だけ、わずかに膝を庇う。


 男は一度だけレイラを見た。


 頭巾の下へ隠した髪。


 粗末な外套。


 革袋。


 修道院から来た荷車。


 それだけを確かめ、余計なことは訊かなかった。


「名は」


 ヨルンが言った。


 一瞬だけ、答えが遅れる。


「マリアです」


「そうか」


 ヨルンは頷いた。


「海の上では、それでいい」


 修道院の男が、荷車から魚籠と水樽を下ろしていく。エッダも運ぶ。レイラが手を伸ばすと、エッダは首を横に振った。


「先に乗って」


「運べます」


「いま落ちられると、荷物が増える」


「私は荷物ですか」


「少なくとも、父はそう聞いている」


 エッダは、少しだけ口元を緩めた。


「ただし、干し魚よりは自分で歩く」


「努力します」


「努力しなくていいから、舟の真ん中へ座って」


 言い方は素っ気ない。


 だが、不親切ではなかった。


 レイラは舟へ乗り込み、積まれた魚籠の陰へ身体を収めた。岸壁も桟橋もない岩場の舟着き場では、足元は不安定で、舟はわずかな波にも揺れる。


 王女であった頃、船へ乗ったことはある。


 ただし、帆を張った遊覧船だった。


 甲板は広く、飲み物も、椅子も、乗組員もいた。いま乗っている小舟とは、同じ海へ浮かぶものとは思えない。


 ヨルンが舟を岩場から押し出す。


 エッダが帆を上げる。


 海風が布を膨らませ、修道院のある島が少しずつ遠くなった。



 ◇



 アルストラ諸島の北端から、フィヨルド諸島同盟の外縁へ至るまでには、島影と岩礁を拾いながら、何日も海を進む必要があった。


 晴れていても潮が悪ければ舟は動かせず、風が強ければ入り江へ逃げ込み、遠くに不審な帆が見えれば、昼間でも舟を岩陰へ寄せて息を潜める。


 ヨルンは、地図より海面を見ていた。


 波の向き。


 海鳥の高度。


 雲の色。


 風が運ぶ潮の匂い。


 それから、古傷の残る膝。


 二日目の朝、空は穏やかに見えた。


 それでも、ヨルンは帆を上げなかった。


「今日は、西へ出ない」


 言う。


 レイラは、岩陰へ作られた古い漁師小屋の入口から、沖を見た。


「風が変わるのですか」


「昼を過ぎたら荒れる」


 ヨルンは短く答え、膝へ手を当てた。


 午前のうちは、海面に大きな変化はなかった。だが、昼を過ぎる頃には白い泡が増え、夕方には、岸へ打ち付ける波の音が小屋の壁まで震わせた。


 小舟で海へ出ていたら、戻れなかったかもしれない。


「お父さんの膝は、よく当たる」


 火へ薪を加えながら、エッダが言った。


「天気が分かるのですか」


「本人は、雲を見てるだけだって言うけど」


 小屋の奥で、ヨルンが鼻を鳴らした。


「膝より先に、雲を見ろ」


「見たあとで、膝にも訊いてるでしょ」


「確認だ」


 レイラは、少しだけ口元を緩めた。


 確認。


 厨房から菓子を持ち出した兄も、よく似た言葉を使っていた。


 三日目の午後、小舟は島と島の間を抜ける狭い水路で、横から強い波を受けた。


 ヨルンが舵を切り、エッダは帆綱を離さなかった。水飛沫が舟の縁を越え、赤茶色の髪から肩、背中までを一息に濡らす。


「平気?」


 レイラが訊く。


「これくらいなら」


 エッダは答えたが、春先の北の海は冷たい。濡れた毛織りの上着へ風が当たるたび、唇の色が少しずつ薄くなっていく。


 魚籠の陰には、修道女から渡された乾いた毛布が一枚残っていた。


 夜になれば、自分にも必要なものだった。


 船酔いと疲労で身体は冷えている。


 それでも、レイラは毛布を取り出し、エッダへ差し出した。


「使って」


「マリアの分でしょ」


「私は、荷物の陰へ入れるから」


「昨日から、まともに眠れてないよね」


「操帆をする人が身体を冷やす方が困る」


「自分のため?」


 レイラは、一度だけ頷いた。


「私を無事に運んでもらわないと、困るから」


 エッダは毛布を見た。


 次に、レイラを見る。


「言い訳、下手だね」


「合理的だと思う」


 舟の後ろで、ヨルンが小さく鼻を鳴らした。


 笑ったらしい。


 その後、舟がもう一度大きく揺れた時、レイラは桶を使った。


 エッダは見ないふりをした。


 ヨルンも何も言わなかった。


 ありがたかった。


 四日目は、朝から風が強かった。


 三人は無人の入り江へ舟を上げ、岩壁へ寄り添うように建てられた古い漁師小屋で、火を起こした。


 エッダは、干し魚を炙りながら訊いた。


「マリアは、森へ行ってどうするの」


 レイラは、すぐには答えなかった。


「確かめたいことがある」


「誰かに会う?」


「会えるかどうかも、分からない」


「危ない?」


「たぶん」


 エッダは、干し魚を裏返した。


「それでも行くんだ」


「行く」


「どうして」


 レイラは、膝の上へ置いた革袋へ触れた。


 白い羽根の感触は、布越しにも分かる。


「自分の名前を、誰かに勝手に使わせたくないから」


 エッダは、それ以上訊かなかった。


 少し間を置いて、焼けた干し魚をレイラへ渡す。


「なら、魚は食べた方がいい」


「なぜ?」


「名前を守るのにも、体力が要るから」


 レイラは、干し魚を受け取った。


 塩気が強い。


 だが、温かい。


 五日目には、フィヨルド外縁の岩礁帯へ入った。


 小さな島がいくつも連なり、海面には暗い岩が不規則に突き出している。ヨルンが細い水路へ舟を入れるたび、レイラは知らず知らずのうちに息を止めた。


 レイラにも、できることは増えていた。


 水樽を動かす。


 魚籠の位置を直す。


 エッダが縄を引く時に、余った分を絡ませないようまとめる。


 ヨルンの膝が痛む時には、舟を岸へ寄せる作業を手伝う。


 大したことではない。


 それでも、何もできない客ではなくなった。


 夜、古い漁師小屋の床へ毛布を敷きながら、エッダが言った。


「マリアは、逃げるのが下手」


「そう?」


「目立たないようにしてるのに、誰かが困ると手を出す」


「まだ、何もしていないと思う」


「お父さんの水樽、勝手に持った」


「膝が痛そうだったから」


「そういうところ」


 エッダは笑った。


「でも、嫌いじゃない」


 レイラは、少しだけ困った。


 誰かに好意を向けられると、どう返せばよいのか分からない。


「ありがとう」


「丁寧すぎる」


「ありがと」


「それでいい」


 言葉を崩すことは、思っていたより難しい。


 だが、少しずつ覚えればよいのかもしれない。



 ──第五十五部 了


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