第五十四部 追放という名の保護と、辺境伯へ渡す手紙の話 Another Side:リューリック
リューリックと、重さの足りない銀貨の話
南へ下る街道を進む灰十字医療団の荷車は、夕暮れ前に小さな宿駅へ入った。
空は低い雲に覆われ、遠くに見える丘の稜線だけが薄い光を残している。荷車の車輪が乾いた轍へ入り、ゆっくりと止まると、御者と衛生兵が薬箱、包帯、水桶、記録板を順番に運び始めた。
今夜は、天幕を張る必要がない。
宿駅の倉庫を一つ借りられる。
リューリックは、寝台ではなく椅子へ座っていた。
傷は縫合済み。
熱も下がった。
だが、動けば開く。
ヴェロニカは、それを見て眉を寄せた。
「寝ろ」
「先ほどまで、寝ておりました」
「足りない」
「熱は下がりました」
「傷は閉じていない」
「動かなければ、問題ございません」
「南へ行く顔をしている」
「顔で判断なさるのですか」
「レオンほど分かりやすくはないが、お前も大概だ」
リューリックは、ほんの少しだけ黙った。
「左様でございますか」
「左様だ」
隣では、エルゼ・ノルデンが記録板へ文字を書いている。
何も言わない。
ただし、リューリックの近くへ置かれていた杖を、少し遠い壁へ立てかけた。
手は届かない。
「エルゼ殿」
「何でしょう」
「杖を」
「必要ありません」
「まだ、何も申し上げておりません」
「患者として、座ったまま考えてください」
静かな声だった。
だが、動かす気はないらしい。
「左様でございますか」
「左様でございます」
ヴェロニカが、少しだけ口元を緩めた。
「レオンよりは、扱いやすいな」
「比較対象として、適切でしょうか」
「十分だ」
倉庫の奥では、灰十字医療団の御者が薬箱を開け、納品書と中身を照合している。
薬箱は届く。
ただし、本来の数より少ない。
納品書もある。
ただし、途中の宿駅で押された印が一つ多い。
死者名簿もある。
ただし、同じ死者の名前が、別の移送札へ使われている。
エルゼは、机の上へ二枚の紙を並べた。
「同じ名前です」
リューリックが見る。
二枚の移送札には、同じ死者名と同じ整理番号が書かれている。
異なるのは、移送先。
一枚は、南方戦線へ向かう補給路。
もう一枚は、レヴァナ方面へ抜ける商業路。
「亡くなった方の名前が、二度使われています」
エルゼは続けた。
「紙の上では、二人いる」
「実際には、一人」
「はい」
「死んだ名前を、二つの道へ運んでいる」
リューリックは、二枚の札を見比べる。
紙質。
折り方。
印章。
青い整理線。
すぐには違いが分からない。
だが、何かがある。
「こちらも見ろ」
ヴェロニカが言った。
机の端に、小さな秤が置かれている。
片側には、正規の銀貨。
もう片側にも、同じ額面の銀貨。
一見すれば、同じだった。
刻印。
縁。
色。
摩耗。
ただし、秤は釣り合っていない。
「軽い」
ヴェロニカが言う。
「どの程度でしょうか」
「少しだけ」
「少しだけ、ですか」
リューリックは、銀貨へ視線を落とした。
リンデン。
ニーナ。
診療所。
薬。
粉。
小銀貨。
両替。
貨幣が揉める時は、だいたい誰かが得をしている。
そして、誰かが薬を買えなくなる。
「偽物では、ない?」
エルゼが訊いた。
「全部が偽物なら、まだ分かりやすい」
リューリックは答えた。
「刻印も、銀の色も、摩耗も自然です。正規貨幣へ混ぜるため、少しだけ価値を削っている」
「少しだけ」
ヴェロニカが繰り返す。
「ああ」
リューリックは、二枚の移送札と銀貨を見る。
「紙は、名前を二度運ぶ」
低い声で言った。
「銀貨は、価値を少しだけ削る」
倉庫の外では、御者が馬へ水を飲ませている。
遠くで、宿駅の鐘が一度鳴った。
「全部を偽造する必要はない」
リューリックは続ける。
「本物の隣へ、少しだけ軽い銀を混ぜればよい。本物の書式へ、少しだけ違う意味を足せばよい」
エルゼが、紙の端へ目を向けた。
「違う意味」
「はい」
「見つけました」
エルゼは、二枚目の移送札を少しだけ持ち上げる。
正規の青い整理線。
その横。
髪の毛ほど細い線。
ほんの少しだけ、濃さが違う。
倉庫の窓から入る夕暮れの光では、注意深く見なければ気づかない。
「後から足されています」
エルゼは言った。
リューリックの目が細くなる。
「どこで、この札を」
「薬箱の底です」
「誰が」
「分かりません。ただし、この薬箱は、ブリエン方面へ向かうはずでした」
「途中で、レヴォナ方面へ分かれた」
「はい」
ヴェロニカが、秤へ載せた軽銀を指先で動かす。
「薬箱、移送札、銀貨」
「同じ道でしょうか」
エルゼが訊いた。
「少なくとも、一度は同じ手へ触れています」
リューリックは答えた。
「南へ向かいます」
ヴェロニカが、即座に言った。
「行かない」
「左様でございますか」
「左様だ」
「ですが」
「傷が開く」
「荷車へ乗れば」
「患者として運ばれるなら、構わない」
エルゼが、記録板へ何かを書き加えながら言った。
「患者として、運ばれてください」
リューリックは、少しだけ黙った。
「左様でございますか」
「左様でございます」
ヴェロニカが腕を組む。
「寝ろ」
「整理だけ」
「寝台でしろ」
「左様でございますか」
「左様だ」
リューリックは、ほんの少しだけ息を吐いた。
立ち上がろうとはしない。
椅子の横へ置かれた二枚の移送札、軽銀、納品書、青い細線、そのすべてを見る。
北方の白鷹門から遠く離れた南方の街道で、同じ頃、紙の端へ同じ細い線が残っていた。
銀貨は、ほんの少しだけ軽かった。
だが、秤は傾いていた。
──Another Side 了




