第五十四部 追放という名の保護と、辺境伯へ渡す手紙の話 ③ 北方地図と、どちらへ出されますか
ヴァルター軍監は、壁へ掛けられた北方地図の前へ立った。
白鷹門。
旧五国連合域。
旧リュカリオン。
オストマルク。
帝国内の主要街道。
さらに、その外側へ伸びる道。
「お前を赦す権限は、俺にはない」
ヴァルターは言った。
迷いを隠す声ではなかった。
迷ったうえで、言葉を選び終えた声だった。
「指名手配は有効だ。金貨千枚の懸賞も消えていない。白鷹門で七百人を救ったとしても、帝国中央が出した手配を、北方軍監の判断だけで取り消すことはできん」
「ああ」
「旧リュカリオンへ向かわせることもできない」
ヴァルターは、地図の西北西へ指を置いた。
「お前が王へ戻る気はなくても、周囲が旗を立てる。白鷹門で名乗った以上、旧臣民の一部はお前を待つ。復国派も、帝国強硬派も、円の中の目も」
「分かっている」
「帝都へ送ることもできない。北方司令部の特別護送班へ引き渡すことも、今は保留する」
「では、どうする」
ヴァルターは、少しだけ息を吐いた。
「北方軍管区から出ろ」
部屋が静かになる。
火鉢の中で、炭が小さく崩れた。
「正式な恩赦ではない。釈放でもない。帝国中央の裁可が下るまで、俺の責任で、お前を帝国外へ護送する」
父を処刑した帝国。
俺を奴隷施設へ送った帝国。
その帝国から、もう一度、外へ出ろと言われる。
不思議な気分だった。
怒るべきなのかもしれない。
笑うべきか。
逃げる口実ができたと喜ぶべきか。
どれも少しずつ違う。
「追い出されるのは、慣れている」
俺は言った。
ヴァルターは笑わなかった。
「慣れるな」
短く答え、少しだけ間を置く。
「今度は、生きて歩け」
胸の奥へ残った。
白鷹門の宿の女将。
ニーナ。
カミラ。
何度も言われた。
生きろ。
戻れ。
守れ。
以前なら、少し面倒だと思ったかもしれない。
今は違う。
「守る」
答えた。
ヴァルターの目が、わずかに動いた。
隣で、カミラもこちらを見る。
何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。
◇
「どちらへ出されますか」
ハインリッヒが訊いた。
ヴァルターは、地図の南東側へ指を滑らせた。
グランデル帝国、ヴェルシャイン王国、カラドリン山岳王国の狭間へ、広大な領域が食い込んでいる。
小さくはない。
むしろ広い。
山、川、海岸線、丘陵。
地図の上でも、平地は限られていた。
「アルムロイト辺境伯領」
ヴァルターは言った。
カミラの目が、少しだけ動く。
「広いな」
俺は地図を見る。
「広い」
ヴァルターは答えた。
「オストマルク、イタリカ、ザクセルを合わせても、アルムロイト辺境伯領の方が広い」
「強い国?」
「単純には言えん」
ヴァルターは、地図の山地へ指を置く。
「国土の八割近くが山だ。残る土地も、川、海岸、丘陵が多い。人が安定して暮らせる土地は、全体の一割から二割ほどしかない」
「大変そうだな」
「鉱山資源と海洋資源は豊富だ。だが、軍を入れれば補給で苦しむ。攻め落としても、占領を続ける方が難しい」
カミラが、地図を見ながら言った。
「帝国、王国、カラドリンの緩衝地帯」
「ああ」
「どこか一国が飲み込めば、残りの二国が黙っていない」
「それだけではない」
ヴァルターは答えた。
「辺境伯が、三国の距離をよく分かっている」
「知っているのか」
俺が訊く。
「面識がある」
ヴァルターは、机の引き出しから一通の封書を出した。
軍の命令書よりも小さい。
厚い紙。
封蝋。
ただし、帝国軍の印ではない。
ヴァルター個人の印章だった。
「過去に何度か、話をした」
「友人?」
「違う」
「仲が悪い?」
「それも違う」
ヴァルターは封書を机へ置いた。
「国境の鉱石輸送、冬季の難民対応、山岳道の通行許可。話が通じる相手だ。簡単に帝国へ屈しないが、感情だけで帝国へ敵対もしない」
「非常に面倒そうだな」
「お前を預けるには、ちょうどいい」
反論は難しかった。
「命令書ではない?」
俺は封書を見る。
「違う」
「では、頼み事?」
「申し入れだ」
ヴァルターは答えた。
「俺が命令できる相手ではない。受け入れるかどうかは、アルムロイト辺境伯が決める」
「断られたら」
「その時は、国境で次の判断をする」
「山の中へ放り出されない?」
「お前の態度次第では、辺境伯がそう判断するかもしれん」
「非常に厳しい」
「寝床がなければ、野営だ」
カミラが言った。
「宿は?」
「期待するな」
「まだアルムロイトへ着いていないのに、すでに厳しい」
俺は地図を見る。
アルムロイト辺境伯領の先。
カラドリン山岳王国。
さらに、その向こうにザクセル。
その先に、イタリカ。
「アルムロイトとザクセルは接していない」
カミラが言った。
「間には、カラドリンの山岳領が長く続く。集落は少ない。道も険しい」
「宿は」
「ないと思え」
「食事は」
「持てる分だけ持つ」
「風呂は」
カミラの顔が赤くなる。
「黙れ」
「重要な確認だ」
「黙れ」
ヴァルターは、俺たちを順番に見た。
少しだけ眉間へ皺が寄る。
「白鷹門で、何があった」
「設備の老朽化による事故だ」
「事故だ」
俺とカミラの声が重なった。
ヴァルターは、しばらく黙った。
ハインリッヒが視線を逸らす。
かなり危険な沈黙だった。
──第五十四部 了




