第五十四部 追放という名の保護と、辺境伯へ渡す手紙の話 ① 慎重な荷車と、北方第三宿駅
白鷹門を離れた翌日の午後、北方第三宿駅へ向かう荷車は、街道の小さな窪みまで避けるようにして、ひどく慎重な速度で進んでいた。
春先の雲は薄く、雨も降っていない。昨日の雪解け水を思えば路面は乾いている方だったが、御者は手綱を緩めなかった。荷台に載せられた負傷者を途中で落とせば、軍監付連絡士官へ提出する報告書が一枚増えるだけでは済まないと、出発前にハインリッヒ・フォン・ホルマンから念を押されている。
荷台には、毛布が三枚、薄い枕が二つ、水筒、薬箱、その隙間へ収まるようにして、歩けると主張し続けている傭兵が一人。
「歩ける」
俺は言った。
荷車の左側を馬で進んでいたハインリッヒは、正面へ顔を向けたまま答えた。
「歩くな」
「昨日よりは、かなり良い」
「昨日は、白鷹門の浴場で傷を開いた」
「設備の老朽化による事故だ」
「監察官殿まで同じ浴室へいた理由は」
「複数の不運が、極めて低い確率で重なった」
荷車の反対側を歩いていたカミラ・パヴェルが、ゆっくりと顔を上げた。
「もう一度、言ってみろ」
「設備の老朽化による事故だ」
「その次だ」
「極めて低い確率で」
「違う」
カミラの右手には、火傷を覆う新しい布が巻かれている。左肩も外套の下へ包帯を巻いているはずだが、歩幅は崩れていない。腰へ下げた短剣も、白鷹門から持ち出した紙の写しを収めた革袋も、いつもと同じ位置へある。
ただし、昨日までと完全に同じではなかった。
こちらが顔を向けると、目が合う直前に、ほんの少しだけ視線を逸らす。横顔を見れば、耳もわずかに赤い。
非常に良い。
「カミラ」
「何だ」
「護衛料の前払いについて、確認事項がある」
「忘れろ」
「残額の算定へ影響する」
「忘れろ」
「支払時期だけでも」
革袋が飛んできた。
いつもなら腹へ落ちる。
だが、今回は俺の足元へ置かれた。紙と布の重さが、毛布の端へ静かに沈む。
腹を狙わなかった。
見逃すはずがない。
「優しくなった?」
「違う」
「照れている?」
「黙れ」
「耳が」
「寝ろ」
カミラは前を向いた。
耳が、もう少しだけ赤くなる。
ハインリッヒが、馬上から一度だけ振り返った。
「北方第三宿駅へ着く前に、余計な傷を増やすな」
「俺ではなく、監察官へ言ってほしい」
「原因は、お前だ」
「偏見が強い」
「実績がある」
反論は難しかった。
◇
白鷹門から北方第三宿駅までの街道には、昨日まで見えなかったものが増えていた。
街道沿いの小さな検問所へ着くたび、ハインリッヒは馬を止め、軍監付連絡士官の印を示した。兵士へ渡す命令書には、俺の本名は書かれていない。
偽帰還令事件の重要証人。
軍監直轄の保護拘束対象。
負傷者。
次の中継地点までの護送。
それだけだった。
一枚の紙へ、すべてを書かない。
白鷹門では、紙が人を動かし、家族を分け、門を閉じ、火を入れた。命令を一枚へ集めれば、誰か一人へ届かなくするだけで止められる。名簿を一か所へ置けば、そこへ火を付けるだけで消せる。
ヴァルター軍監は、同じ失敗を繰り返すつもりがないらしい。
最初の検問所には、次の宿場まで。
二つ目には、北方第三宿駅まで。
それより先の経路は、まだ紙へ書かれていない。
帝国軍人は、不便な命令を好まない。だが、便利であること自体が危険になる場合もある。
荷車の揺れに合わせて、白鷹門の中央広場が頭の中へ戻った。
薄い青線の札を胸へ抱えた老人。濃い青線の札を渡され、西門の近くへ集められた男たち。家族札を落とした女。泣いていた子ども。白鷹旗と、グランデル帝国北方軍の鷲旗。門の下から上がった火。何度も手から手へ渡され、最後には同じ列の中で帝国兵と旧臣民が回していた水桶。
そして、俺の名前。
レオン・ヴァン・リュカリオン。
名乗る前と、名乗ったあとで、同じ人間の目が少しずつ違って見えた。
「静かだな」
カミラが言った。
「考えていた」
「珍しい」
「俺も、真面目なことを考える時はある」
「浴場のことか」
「非常に重要ではある」
カミラの目が細くなる。
「だが、今は違う」
俺は、少し先を行く護送兵の背中を見る。
「金貨千枚の話だ」
カミラは黙った。
荷車の前には二騎、後ろにも二騎。ハインリッヒの部下だけではない。北方第三巡察隊から選ばれた兵士も混ざっている。
彼らは、こちらを必要以上に見ない。
見ないようにしていることが分かる。
白鷹門で俺が名乗ったという報せは、伝令馬と一緒に街道を走った。正確な似顔絵は出回っていない。それでも、軍監付連絡士官が自ら護送し、傷を負ったイタリカ監察官が横を歩き、荷台へ寝かされている男がいる。
ただの傭兵ではないと察するには、十分だった。
「怖いか」
カミラが訊いた。
「少し」
正直に答えると、カミラはわずかに眉を上げた。
「珍しいな」
「金貨千枚は、大きい」
一人の人生を変えるには十分すぎる額だ。土地を買い、借金を返し、病気の家族へ薬を買い、冬を越すための麦と薪を揃えても、まだ残るかもしれない。小さな村なら、数年分の不作へ備えることさえできる。
俺の首一つで。
「全員が悪人ではない」
俺は続けた。
「むしろ、守りたいものがある奴ほど、一度だけ迷う」
「ああ」
「帝国兵も?」
「人間だ」
カミラは答えた。
「だから、善意だけへ預けるな。軍令と記録が要る」
少し前に、ヴァルター軍監も同じ判断をした。
ハインリッヒも。
俺を逃がさない。
だが、誰にでも触らせない。
友好的な扱いではない。だからこそ、信用できる部分がある。
「カミラ」
「何だ」
「もし、俺の首を渡せば、金貨千枚だ」
「そうだな」
「少し迷う?」
カミラは、荷車へ顔を向けた。
「金貨千枚あれば、薬を買える」
「ああ」
「静かな宿も取れる」
「かなり良い部屋に泊まれる」
「食事も選べる」
「良いな」
「それから」
カミラは、少しだけ目を細めた。
「二度と、浴場で事故を起こす男を見なくて済む」
「非常に危険な判断だ」
「迷うな」
「迷った?」
「黙れ」
足元へ置かれていた革袋が、少しだけ俺の方へ押された。
腹には載らない。
やはり、優しい。
たぶん。
◇
北方第三宿駅は、三本の街道が交わる場所へ作られた大きな中継拠点だった。
白鷹門ほど古くはない。石壁は低く、宿舎、厩舎、倉庫、診療棟、伝令用の塔が、広い中庭を囲むように並んでいる。門を入ると、馬の汗、干し草、煮込み料理、薬草、濡れた革の匂いが混ざり、白鷹門から持ち帰った煤の臭いが少しずつ薄くなった。
荷車が中庭へ入る。
倉庫の前で木箱を運んでいた兵士が振り返り、厩舎から出てきた若い兵士も足を止めた。全員ではない。だが、噂は届いている。
白鷹門で、旧リュカリオンの元王子が名乗った。
グランデル帝国から金貨千枚を掛けられた賞金首が、生きていた。
その男が、軍監直轄の保護拘束下で戻ってくる。
視線は長く続かない。
すぐに逸らす者もいる。何も見なかったふりをする者もいる。敬礼するべきか迷い、結局は手を動かさない者もいる。
荷台の上から見ると、よく分かった。
最初に顔を見る。
次に、首を見る。
そのあとで、ハインリッヒの軍装と、荷車を囲む兵士の人数を確かめる。
金貨千枚。
値段が付いた首は、顔よりも分かりやすい。
「降りる」
俺は言った。
ハインリッヒは馬から降りながら、即座に答えた。
「降りるな」
「診療棟までは近い」
「担架を呼ぶ」
「歩ける」
「白鷹門でも聞いた」
「今回は、本当に」
「トルガウの病室でも聞いた」
「長い付き合いになったな」
「望んでいない」
ハインリッヒは、近くにいた衛生兵へ顎を動かした。
担架が運ばれてくる。
非常に不本意だった。
「少しは、歩けると言ってほしい」
俺は、カミラへ顔を向けた。
「歩ける」
「分かっているなら」
「歩かせてよいとは言っていない」
「厳しい」
「実績がある」
担架へ移される。
兵士の視線が、さらに集まる。
元王子。
金貨千枚。
煤の残った髪。
額のこぶ。
包帯。
担架。
どう考えても、格好が悪い。
「カミラ」
「何だ」
「王子らしさが足りない気がする」
「安心しろ」
「何が」
「最初からない」
反論は難しかった。
──第五十四部 了




