第五十三部 白鷹門の湯と、護衛料を少しだけ前払いする話 ④ 二つの寝台と、翌朝
夜が深くなる頃、白鷹門の東側にある旧門番詰所へ、小さな寝台が二つ用意された。
軍監直轄の保護拘束対象である俺を一人にはできない。入口の外にはハインリッヒの部下が二人、窓の下には北方第三巡察隊の兵士が立ち、机の上には水、薬、包帯、回収した紙の写しが置かれている。
鍵は、外から掛けられた。
非常に不本意である。
ただし、カミラも同じ部屋にいる。
少しだけ改善した。
隣の寝台へ座るカミラは、湯上がりの寝衣をまとい、右手には火傷用の布、左肩には新しい包帯を巻いていた。
短い黒髪は、まだ少しだけ湿っている。
普段の外套も短剣もない。
その姿を見ると、少しだけ違う人間に見えた。
監察官でもない。
紙を追う女でも。
剣を抜く女でも。
今だけは、疲れ切った一人の女だった。
「眠らないのか」
俺が訊く。
「寝る」
「いつ」
「あんたが眠ったら」
「信用がない」
「実績がある」
正確だった。
窓の外からは、古い水路を流れる水の音が聞こえている。
白鷹門の火は消えた。
中央広場へいた人々は、診療天幕、門番詰所、街道沿いの天幕へ分かれ、夜を越す。麦と薬の配給も続いている。
家族札は本人へ返され、写しを作る場合は、誰が、どこで、何のために保管するかを書き加える。
ミハイルは白い外套を脱いだ。
それでも、名簿の整理を手伝うと言った。
ヘスラー大佐は監査へ従う。
ハインリッヒは俺を逃がさない。
たぶん。
かなり。
「カミラ」
「何だ」
「ありがとう」
言う。
カミラは、少しだけ目を上げた。
「何が」
「戻った」
「約束した」
「水門も開けた」
「兵士がいた」
「紙も取った」
「副官もいた」
「浴場でも支えた」
カミラの顔が赤くなる。
「それは忘れろ」
「非常に難しい」
「忘れろ」
「努力する」
カミラの目が細くなる。
「守る」
「何を」
「たぶん、記憶を」
「消せ」
「無理だ」
枕が飛んできた。
避けない。
腹へ当たる。
「痛い」
「知らない」
声は低い。
だが、少しだけ笑っている。
俺も枕を抱えたまま、少し笑った。
「護衛料」
言う。
カミラの笑みが消える。
「まだ言うのか」
「白樺礼拝堂から、かなり働いた」
「誰のせいで傷が増えた」
「主に敵」
「半分は、あんただ」
「正確には、もう少し少ないと思う」
「本当に?」
「努力する」
「守れ」
「守る」
いつものやり取り。
ただし、今日は少しだけ違う。
カミラは、しばらく俺を見ていた。
湯上がりで赤い頬。
乾ききらない短い髪。
右手の布。
左肩の包帯。
疲れ。
怒り。
呆れ。
たぶん、それだけではない何か。
やがて、ゆっくり立ち上がる。
俺の寝台へ近づく。
「何だ」
「目を閉じろ」
「また?」
「閉じろ」
「安全確認が」
「今は、閉じろ」
低い声。
だが、怒っていない。
俺は、少しだけ迷った。
浴場では閉じなかった。
今回は、閉じる。
たぶん。
かなり。
成長した。
視界が暗くなる。
寝台の横で、衣擦れの音がした。
近い。
湯と石鹸の匂い。
短い呼吸。
次の瞬間、額へ柔らかいものが、ほんの一瞬だけ触れた。
すぐに離れる。
目を開ける。
カミラは、もう半歩だけ下がっていた。
耳まで赤い。
かなり。
いや。
非常に。
「前払いだ」
低い声で言った。
俺は、しばらく何も答えられなかった。
本当に。
珍しく。
何も。
頭の中が止まる。
カミラは、さらに顔を赤くした。
「何か言え」
「もう一度」
「殺すぞ」
「かなり良かった」
「忘れろ」
「無理だ」
「寝ろ!」
枕が、もう一度飛んできた。
今度は顔へ当たる。
痛くない。
むしろ。
かなり良い。
「残りは」
枕の下から訊く。
カミラは、背を向けた。
「生きて戻ったら考える」
低い声。
だが、聞こえた。
胸の奥へ、火とは違う熱が落ちる。
痛くない。
悪くない。
本当に。
◇
翌朝。
白鷹門の上には、薄い雲の切れ間から春の光が落ちていた。
焼けた木箱、濡れた石畳、泥、水路、煤、まだ残る仕事。
それでも、西門は開いている。
旧五国連合域へ続く道も。
旧リュカリオンへ向かう、西北西の街道も。
残っている。
俺は荷車へ載せられた。
非常に不本意である。
「歩ける」
「歩くな」
ハインリッヒは即座に答えた。
「保護拘束対象は、もう少し丁寧に扱うべきでは」
「毛布がある」
「昨日も聞いた」
「枕も追加した」
「かなり改善した」
荷台の横には、カミラがいる。
外套。
短剣。
革袋。
紙。
右手の布。
左肩の包帯。
いつもの監察官へ戻っている。
ただし、目が合うと、ほんの少しだけ顔を逸らす。
非常に良い。
「カミラ」
「何だ」
「護衛料」
「黙れ」
「前払い分について」
「黙れ」
「残額の確認を」
革袋が腹へ載る。
「痛い」
「生きているな」
「ああ」
「なら、黙れ」
厳しい。
だが、悪くない。
本当に。
ハインリッヒは荷車の前へ立ち、ヴァルター軍監の命令書を確かめた。
「まず、北方第三宿駅へ戻す。治療と事情聴取を行い、ヘスラー大佐の監査記録、ミハイル・ヴァルゼンの証言、回収した紙の写しを別々の道で送る」
「西へは行けない?」
「今すぐはな」
ハインリッヒは答えた。
「だが、円の中の目が第二経路へ移ったなら、いずれ追う必要がある。白鷹門の先、旧五国連合域、さらに西へ」
カミラが革袋へ手を置く。
「私も行く」
ハインリッヒが顔を向ける。
「イタリカの監察官が、グランデル帝国軍の保護拘束対象へ同行する理由は」
「監察」
カミラは即座に答えた。
「円の中の目は、私の過去まで調べている。二枚の移送札も、青い細線も、私が追ってきたものとつながる」
俺は荷台の上から顔を向ける。
「便宜上?」
カミラの目が細くなる。
「黙れ」
「非常に便利な言葉だ」
「本当に黙れ」
耳が、少しだけ赤い。
悪くない。
かなり。
荷車が動き始める。
白鷹門の石畳を車輪が踏み、西門とは反対側、いったんグランデル帝国領内へ戻る街道へ進む。
今は、治す。
休む。
事情を話す。
逃げない。
そのあとで、西へ進む。
俺より先へ歩いた名前を追うために。
レイラがどこへ向かったのか確かめるために。
旧リュカリオンへ近づくために。
円の中の目が残した、第二経路へ入るために。
荷車の横では、カミラが歩いている。
いつものように。
ただし、少しだけ近くで。
白鷹門の上では、濡れた白鷹旗とグランデル帝国北方軍の鷲旗が、同じ春の風を受けて揺れていた。
火は消えた。
それでも、道は続いている。
──第三章 火 了




