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第五部 獣医ハンナと、まっすぐ死ぬ場所の話 ① 〜ラバの脚〜

 動物は、まっすぐ死ぬ。


 怪我をすれば、群れを離れる。


 自分の死に場所を、自分で選び、横たわる。


 吠えず、呻かず、最後に空を一度だけ見て、それから息を止める。


 人間は、まっすぐ死ねない。


 怪我をしていても、群れの中で、まだ働かされる。


 働かないと、群れから締め出されるからだ。


 締め出されたら、家族が明日のパンを失うからだ。


 だから人間は、まっすぐ死ねず、回り道をして、最後には、群れの真ん中で誰かのために倒れる。


 その回り道を、共同体の名前で回らせ続ける構造を、人はときに革命と呼ぶ。


 動物の側を選んだ女が、イタリカ北部の鉱山都市カステリオに、ひとり、いた。


 獣医ハンナ。


 四十を少し越えた、麦色の髪の女だった。


 腕は太く、手の甲には、薬を煮詰めた時の古い火傷がいくつも残っている。


 その体は、若い娘の華やかさではなく、毎日、生き物の重さを受け止めてきた人間の厚みを持っていた。


 馬の前脚を支え、暴れるラバの首を押さえ、死にかけた犬を一晩中抱いて眠らせてきた女の体だ。


 彼女は、人間より、動物に優しかった。


 ただし、それは人間を嫌っていたからではない。


 人間に、十年前、息子をまっすぐ死なせてもらえなかったからだった。


 俺がその町で過ごした十日間で、ハンナは、俺の左肩を縫い直し、ラバの腱を縛り、馬の腹痛を診て、坑夫の足を切り、警告を出した男の遺体を納屋に収めた。


 俺とリューリックの正体を、ハンナは、たぶん途中で察した。


 察したまま、何も言わなかった。


 代わりに、彼女は別れ際に、ひとつだけ頼みごとを口にした。


 その頼みごとは、これから先、俺の懐の中で、いちばん重い荷物になる。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ただの傭兵。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、惚れた相手からいろいろなものを受け取って、街道で勝手に重くしていくこと。


 今回の町では、惚れる相手は、いなかった。


 代わりに、頭を下げる相手が、ひとり増えた。


 俺の人生で、惚れるより頭を下げる方が、たぶん重い種類の出来事だった。



 ◇



 イタリカ南部の野戦病院を発って、数日。


 俺の右腕の傷は、ヴェラに縫ってもらってから、もう痛まない。


 縫合の糸の張りが、いつもの三倍くらい丁寧だった。


 本人は何も言わなかったが、抜糸の時、リュドミラが横で低く笑った。


 代わりに、左肩の古傷がまた疼くようになっていた。


 古い傷は、新しい傷が癒えるたびに「次はこちらです」という顔で戻ってくる。


 俺の体は、ひとつの場所でふたつの痛みを同時に抱えられないらしい。


 抱えられないのは、人間の体の節度というやつだ。


 節度のある体に、節度のない人生を二十八年押しつけ続けている。


「殿下、肩が」


「分かってる」


「マレーナ薬師の薬草袋をお使いになりますか」


「使うほどじゃない」


「出し惜しみは、もうおやめになりませんか」


「俺の人生、傷から傷へ渡り歩いてるんだろ」


「殿下のお選びになった旅でございます」


「うるさい」


「殿下、最近、うるさいの一言でお話を切り上げる回数が増えております」


「俺の話す回数が減ってるからだろ」


「お減りになるのは、お年でしょうか」


「お前、家令の本義のどこかに、いつから無礼の項目が加わった」


「家令の家系の副業の本義は、現場で更新されるものでございます」


「現場、勝手に更新するな」


「勝手はいたしておりません。殿下のご様子に合わせて更新しております」


「俺のせいか」


「左様で」


「……うるさい」


「ほら、また」


 リューリックは、いつもの返しをしなかった。


 代わりに、馬の口元を軽く撫でた。


 馬は、彼の手のひらにすぐ口を寄せた。


 馬の方が、俺よりリューリックを信用している。


 長年の感想だ。



 ◇



 イタリカは、思ったより住みやすい国だった。


 革命後の田畑は、整然と区画されている。


 共有倉庫が村ごとに建っている。


 元帝国奴隷だった農民が、自分の鍬を持っている。


 道端の老婆も、若い農夫も、こちらの顔をまっすぐ見て、軽く頭を下げる。


 帝国時代の田舎では、傭兵を見ればまず目を伏せた。


 いまは伏せない。


 その違いだけでも、革命というのは確かに何かを変えたらしい。


 ただし、貧しい。


 倉庫の棚は空いている。


 街道沿いの茶屋では、白湯と塩を振った黒パンが出てきた。


 それで銅貨二枚。


 茶屋を出て、街道をしばらく進んでから、リューリックが低く言った。


「殿下」


「うん」


「これ、革命の前と後で、どっちがましなんでしょうな」


「人による」


「左様で」


「奴隷だった人間にとっては、革命の方がましだろうな」


「奴隷でなかった人間には」


「分からん」


「正直でございますな」


「俺は政治家じゃない」


「ただし、ご出身では」


「言うな」


「左様で」


 リューリックはそれから、低く呟いた。


「ただ、自由なところは、間違いなく進んだようです」


 自由、という単語を、俺の家令はめったに使わなかった。


 使ったということは、彼の中で何かがわずかに動いたということだった。


 俺は、それを聞かなかったふりをした。


 聞いたふりをすると、彼の中の動いたものが、もう一度表に出てしまう。


 表に出さない方が、長旅では互いに楽だった。



 ◇



 街道沿いでリューリックが拾った噂は、いくつもあった。


 補給係の坑道は、家令を辞めても、彼の中にまだ残っているらしい。


「カステリオの鉱山で、坑夫がまた死んだそうです」


「事故か」


「らしい。ただ、最近続いていると」


「ふうん」


「鉱山警備の口、まだ空いていると聞きました」


「行くか」


「はい」


 ふうん、と、行くか、のあいだに、半秒ほどの間があった。


 半秒は、俺の中で、行かない選択肢を置いた時間だった。


 行かない選択肢は、行く選択肢に半秒で負けた。


 続く事故には、たいてい続く理由がある。


 続く理由には、たいてい続けたい誰かがいる。


 続けたい誰かは、たいてい続いていることを知られたくない。


 知られたくない者を傭兵がたまたま見つけてしまうと、傭兵の命が続かなくなる。


 俺は、その式をもう十年近く回している。


 回しているうちに、避ける方向ではなく、近づく方向に計算が傾くようになった。


 なぜそうなったのかは、自分でもよく分からない。


 分からないが、馬の鼻先は北を向いていた。


 四日目の夕方、岩山に挟まれた薄ぼんやりとした谷の向こうに、城壁が見えた。


 カステリオ。


 イタリカ北部の鉱山都市。


 オストマルク辺境伯領との国境から、馬で二日の内陸の町だった。



 ◇



 カステリオの城壁の門は、開けっ放しだった。


 検問はない。


 商隊が自由に出入りしている。


 管理されていない、というより、管理されていることを見せない町だった。


 ただし、入ってすぐ分かった。


 石畳に、新しい血の痕が点々と残っていた。


 誰かが、最近、ここで引きずられていった。


 血の終点は、町の南東の、廃墟になりかけた建物の方角に消えている。


 たぶん、誰もそこには行かない。


 それが、この町の暗黙の了解だった。


 革命のあとに残るのは、たいてい自由そのものではない。


 自由のあとに、暗黙の了解が新しい鎖として巻き直される。


 その巻き直し方は、町ごとに少しずつ違う。


 カステリオの巻き直し方は、鉱山と生産割当に関係している。


 俺は、入って五分でそう当たりをつけた。


 当たりは、たいてい外れない。


 外れないのが、傭兵生活の悪い特典だった。


 門の内側、街道沿いに人だかりができていた。


 近づいてみると、鉱山馬車の前で、一頭のラバが横倒しになっている。


 茶色い体毛。


 痩せている。


 あばら骨が皮膚の下に浮いていた。


 右の前脚から血が滲んでいる。


 血の量は多くない。


 だが、滲み方が新しい傷ではなかった。


 古い傷の上に、新しい負荷がかかって、もう一度滲み出した血だった。


 坑夫たちが、ラバの脇に立っていた。


 一人が、ラバの首に縄を巻きつけている。


「使えないなら、潰せ」


 太い声の坑夫が言った。


 ためらいはなかった。


 何度か潰してきた声だった。


「その脚で、まだ働かせたのか。馬鹿ども」


 坑夫たちの後ろから、女の声が響いた。



 ◇



 坑夫たちが振り返った。


 俺も振り返った。


 麦色の髪を雑に束ねた女が、坑夫たちを押しのけて進み出てきた。


 歳は、四十半ばくらいか。


 ただし、その歳は衰えではなく、積み上げだった。


 額に汗で湿った後れ毛が貼りついている。


 肩幅は男のものに近い。


 立ち方が、地面を踵でまっすぐ捉えていた。


 腕は太かった。


 ただ太いのではない。


 長く、生き物を毎日押さえてきた女特有の、芯のある太さだった。


 ラバを片手で抑え、馬の前脚を支え、犬を片腕で持ち上げる。


 そういう日常を二十年単位で続けてきた腕だ。


 手の甲に火傷の跡。


 三つか、四つ。


 いずれも古い。


 獣医の手の、職業的勲章だった。


「ハンナ姐さん」


 坑夫の一人が低く言った。


 その名前が町でどのくらいの重さを持っているかは、坑夫の声で分かった。


 半分は敬意。


 半分は、これから始まる説教への観念だった。


「事情を聞きな。このラバ、いつから足を引きずってた」


「……三日前から」


「三日前から足を引きずってる動物に、半日の荷を運ばせたのか」


「鉱山の納期が」


「黙れ」


 怒鳴ってはいなかった。


 ただ、その「黙れ」は、町の広場の半分までまっすぐ届いた。


 坑夫は口をつぐんだ。


 ハンナは、ラバの前にしゃがんだ。


 しゃがむ動作が、地面の高さへすっと降りた。


 獣医は、しゃがむことが仕事の半分を占めている。


 半分を占める動作は、最短の形に磨かれていく。


 手の甲が、ラバの脚に触れた。


 指で軽く押す。


 ラバが、ぴくりと震えた。


「腱が切れかけてる。早く休ませれば助かった」


「今は」


「今でもまだ間に合う。だが、誰か押さえる役が要る」


 ハンナの視線が、坑夫たちの顔をひとつずつ見た。


 品定めの視線だった。


 選別の結果、彼女の目は俺に向いた。


「そこの傭兵風の男」


「俺?」


「あんた、馬、扱える顔をしてる」


「顔で分かるのか」


「分かる」


「断る理由はない」


「ふん」


 それで、もう俺の同意は確認されたらしい。


 確認したわけではない。


 ラバの脚の前で迷う時間がない、と彼女が判断しただけだ。


 迷う時間を、ハンナは命の単位で計算する女だった。


 俺はラバの首元に座り込んだ。



 ◇



 ラバの口先を両手で押さえた。


 動物の体温は、思ったより高い。


 俺の手のひらの下で、ラバの息が、ふっ、ふっ、と規則的に続いた。


 規則的だが、息と息の間隔が少しだけ長い。


 痛みを、内側で堪えている息だった。


 ハンナは革袋から軟膏と布と細い木の板を取り出した。


 革袋の中の道具立ては整然としていた。


 軟膏の瓶、消毒液、革紐、骨切り鋸、太い針、細い針、糸の太さ違い数巻。


 それから、何かを煮詰めた黒い固まり。


 戦場の軍医の革袋より、種類は少ない。


 ただし、ひとつひとつが使い込まれていた。


 ハンナは、ラバの右前脚に軟膏を塗り込んだ。


 押さえる。


 温める。


 固定する。


 包む。


 彼女の手は、その四つを繰り返した。


 ヴェラが、切る・引く・縫う・結ぶ女なら、ハンナは、押さえる・温める・固定する・包む女だった。


 開きの女と、閉じの女。


 どちらも、別々の方向で命を保とうとしている。


 ラバは何度か震えたが、暴れなかった。


 俺の手の中で、ラバの湿った息だけが深く続いた。


「終わった。離していい」


 俺はゆっくり手を離した。


 立ち上がった瞬間、左肩に引きつる痛みが走った。


 ぴり、と何かが開いた感覚。


「あんた、肩、開いてる」


 ハンナの目が、俺の上着の襟元を見ていた。


「うん」


「ラバを押さえる時に、力を入れすぎた」


「だろうな」


「ハンナ姐さん、こいつもついでに頼む」


 坑夫の一人が笑いながら言った。


「ついでに、か。ラバの分の薬代、ちゃんと払いな」


「払う」


 ハンナの目が、俺に戻った。


「あんた、坑夫?」


「傭兵だ」


「ふん。ラバより聞き分けが悪そうだ」


「初対面でそこまで分かるのか」


「獣医だからね」


 ハンナは、ふっと笑った。


 太い、低い笑い。


 その笑いは、納屋の梁を揺らすような、よく通る笑いだった。


 若さで人を引き寄せる笑いではない。


 長く町に居続け、何匹も見送り、何人も怒鳴り、何度も諦めずに手を動かしてきた人間の笑いだった。


「来な。納屋で診る」


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