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第四部 外科医ヴェロニカと、敵兵を縫う話 ⑦ 〜死に損なう前に来い〜

三日後の朝、俺たちは病院を出ることにした。


 リューリックの補給係としての契約は終わった。


 俺の助手兼燃える包帯消火係兼負傷者役の契約も終わった。


 ヴェラは、病院の前で立っていた。


「行く」


「行く」


「膝、無理するな」


「努力する」


「努力ではなく、実行しろ」


「善処する」


「善処も要らない。休め」


「医者の指示は厳しいな」


「患者が馬鹿だからだ」


 彼女は小さな革袋を差し出した。


「止血粉。二回分。あと、痛み止め。強い。使いすぎるな」


「ありがたい」


「ニーナの瓶と混ぜるな」


「なぜ知ってる」


「荷物を見た」


「勝手に?」


「医者として」


「夜の女としてではなく?」


 ヴェラの目が細くなった。


「レオン」


「はい」


「昼にそれを言うな」


「すみません」


「夜なら」


「夜なら?」


「噛む」


 俺は黙った。


 リューリックが横で、咳払いをした。


「殿下。品位が、野戦病院の泥に沈みました」


「拾うな。もう遅い」


「左様で」


 ヴェラは、俺とリューリックを交互に見た。


「変な主従だ」


「よく言われる」


「また死に損なったら、来い」


「治してくれるのか」


「気に入ればな」


「気に入らなかったら」


「縫うだけ縫って、放り出す」


「怖い女だ」


「今さら気づいたのか」


 ヴェラは一歩近づいた。


 人目があった。


 リュドミラもいた。


 補給係も、担架兵も、若いイタリカ兵もいた。


 その全員の前で、ヴェラは俺の襟を掴み、ぐいと引いた。


 唇ではなかった。


 口づけではない。


 彼女は、俺の耳元にだけ届く声で言った。


「昼の私と夜の私、どちらが怖かった」


「……どっちも」


「正解だ」


 それから彼女は、俺の耳朶を軽く噛んだ。


 本当に、軽く。


 しかし確実に、噛んだ。


「いっ」


「生きているか、確認した」


「確認方法が偏ってる」


「また来い」


「死に損なったらな」


「違う」


 ヴェラは、初めて少しだけ強く、俺の目を見た。


「死に損なう前に来い」


 それだけ言うと、彼女は踵を返した。


 白衣が翻る。


 軍服の裾が、朝の風に揺れる。


 歩き方は、いつもの最短だった。


 ただし、最後に一度だけ、指先が頬の傷に触れた。


 それは癖かもしれない。


 確認かもしれない。


 俺には、もう区別がつかなかった。



 ◇



 街道に出ると、リューリックが馬を引いて待っていた。


 馬は、補給係の伝手で安く手に入れたものだった。鞍にはイタリカ軍の徽章が薄く押されている。徽章を削り落としてあるが、まだ痕が残っていた。


「殿下、次はどこへ」


「お前が、また情報を集めたんだろ」


「左様で」


「どこだ」


「北のカステリオ方面。補給路が細くなっております。イタリカとカラドリンの境の小さな鉱山町です」


「また鉱山か」


「鉱山には、鉄と、人手と、問題が集まります」


「女は?」


「殿下」


「いや、確認だ」


「家令の家系の副業の本義として、女性の配置までは事前確認いたしかねます」


「役に立たんな」


「殿下は、確認せずとも、だいたい惚れます」


「それもそうだ」


「否定してください」


「できない」


 俺は馬に乗った。


 膝が痛んだ。


 脇腹が痛んだ。


 右腕が痛んだ。


 耳朶が少しだけ熱かった。


 懐には、青銅の札が三枚。


 ニーナの鎮痛剤の残り。


 マレーナの薬草袋。


 そして、ヴェラの止血粉と痛み止め。


 重い。


 俺の懐は、どんどん重くなる。


「リューリック」


「はい」


「新しい革袋が要る」


「畏まりました。殿下の恋慕と厄介ごとを収めるため、大型のものを探しましょう」


「恋慕と厄介ごとを一緒に入れるな」


「分別なさいますか」


「できないから困ってる」


「左様で」


 リューリックは少しだけ笑った。


 俺は、振り返らなかった。


 振り返ったら、ヴェラが病院の前に立っているかもしれない。


 いないかもしれない。


 どちらにしても、振り返ったら、たぶん足が止まる。


 足が止まれば、また別の熱が出る。


 だから振り返らなかった。


 イタリカの野戦病院の煙突から、白い煙が上がっていた。


 血の匂い。


 消毒液の匂い。


 鉄の匂い。


 そして、彼女の手の冷たさ。


 町でもない、村でもない、戦場の匂いが、背中にしばらくまとわりついた。


 馬は、ゆっくり北へ進んだ。


 次の町は、まだ見えなかった。



 ◇



 ──Another Side──



 レオンたちが出ていったあと、ヴェロニカは手術小屋に戻った。


 戻るしかなかった。


 患者は待ってくれない。


 傷口は、恋情の余韻が消えるまで血を止めてくれない。


 彼女は白衣の袖をまくり、器具を並べ、針を煮沸した。


 その動きは、いつもの最短だった。


 ただし、一度だけ、指が止まった。


 耳元で、彼が言った「どっちも」という声が、まだ残っていた。


 昼の私と夜の私、どちらが怖かった。


 どっちも。


 正解だ。


 ヴェロニカは、小さく笑った。


 笑った直後、患者が運ばれてきた。


 右腕裂傷。


 出血多量。


 彼女は、すぐに顔を戻した。


 外科医の顔。


「台に乗せろ」


 声が通った。


 若い兵士たちが動く。


 リュドミラが布を持って走る。


 ステファンが遠くからこちらを見ている。


 ヴェロニカは患者の腕を見た。


 切る。


 引く。


 縫う。


 結ぶ。


 四つの動作が、いつも通り流れた。


 いつも通りだった。


 ただ、手の中に、ひとつだけ違う温度が残っていた。


 昨夜、自分で選んだ男の肌。


 自分の手で引いた男の手。


 自分の意志で越えた境界線。


 あれは医療ではない。


 慰めでもない。


 弱さでもない。


 あれは、自分の体を自分のものに戻すための、夜の手術だった。


 彼女は、患者の出血点を見つけた。


「鉗子」


 リュドミラが渡す。


 ヴェロニカは血管を挟み、糸をかけた。


 手は震えなかった。


 それが、少しだけ嬉しかった。


 嬉しいと思ったことに、彼女は少しだけ驚いた。


 驚いたが、すぐに手を動かした。


 戦場は、驚きを長く許さない。


 手術が終わったあと、彼女は机の上の記録紙を一枚取った。


 患者名。


 負傷部位。


 処置。


 経過観察。


 いつもの項目を埋める。


 その下に、書く必要のない余白があった。


 彼女は筆を持ったまま、しばらく止まった。


 それから、何も書かずに筆を置いた。


 書かないことにした。


 夜のことは、記録しない。


 記録しないから、消えるわけではない。


 むしろ、記録しないものほど、体に残る。


 ヴェロニカは、ふと自分の頬に触れた。


 古い傷の上。


 そこに、昨夜、彼の息が置かれた。


 傷は、もう痛まない。


 痛まないが、覚えている。


 その覚え方が、昨夜から少し変わっていた。


 彼女は窓の外を見た。


 イタリカの丘陵に、昼の光が落ちている。


 遠くの街道を、二騎が小さく進んでいた。


 片方が、少しだけ姿勢を崩している。


 たぶん膝が痛むのだろう。


 それでも馬上から落ちない。


 死に損なうのが上手い男だ。


 そして、たぶん、生きるのが下手な男だ。


 ヴェロニカは、低く笑った。


「次は、死に損なう前に来い」


 誰にも聞こえない声で言った。


 言ってから、白衣の袖をもう一度まくった。


 次の患者が運ばれてくる。


 昼は外科医。


 夜は女。


 どちらも、自分で選ぶ。


 ヴェロニカは、もう一度、手を洗った。


 水は冷たかった。


 冷たい水の中で、昨夜の熱は消えなかった。


 消えないまま、彼女の手は、また人を縫うために動き始めた。



 ──第四部 了


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