第四部 外科医ヴェロニカと、敵兵を縫う話 ⑥ 〜燃える包帯〜
二日後の朝、事件が起きた。
夜明け前、病院の北側、補給道の方角から馬の蹄の音が複数近づいてきた。
歩哨の声が上がる。
「カラドリン軍! 報復隊!」
俺は寝台で跳ね起きた。
膝が痛んだ。
脇腹が痛んだ。
肩も痛んだ。
全部無視した。
病院内に、短い混乱が走った。
敵兵を治療した病院。
その敵兵が死んだ翌々日。
報復隊という言葉の意味を、ここにいる全員が理解していた。
敵を助けたことへの報復ではない。
敵が死んだことへの報復でもない。
戦場では、理由など後からいくらでもつく。
襲う側は、襲う理由が欲しいだけだ。
ヴェラが手術小屋から出てきた。
髪は結っていない。
白衣の上から軍服を羽織っているだけだった。
「リュドミラ、重傷者を奥へ。歩ける患者は南棟へ。補給係、火を落とせ。水を持ってこい」
声が走った。
誰も逆らわなかった。
夜の女は、もういなかった。
そこにいるのは、昼の外科医だった。
ただし、その昼の外科医は、昨夜より少しだけ強く見えた。
「レオン」
「何だ」
「動けるか」
「動ける」
「嘘だな」
「動ける程度に嘘だ」
「なら、死なない程度に前へ出ろ」
「注文が雑だな」
「上手いんだろ、死にかけるの」
「どこで覚えた」
「顔で分かる」
「最近、顔で全部バレるな」
ヴェラは、ふっと笑った。
六度目か、七度目か。
数えるのを、俺はもう諦めた。
◇
報復隊は、病院を焼くつもりだった。
火矢が飛んだ。
一本が、包帯干しの柱に刺さる。
乾いた包帯が、一瞬で燃え上がった。
俺は、近くにあった水桶を掴み、火にぶちまけた。
水が弾け、湯気が上がる。
その湯気の向こうから、カラドリン兵が三人、斧を手に突っ込んできた。
リューリックが一人目を止めた。
俺は二人目の足を払った。
膝が痛んだ。
腹が痛んだ。
肩が痛んだ。
痛みの全部が、いっぺんに俺へ文句を言った。
「うるさい、あとで聞く!」
俺は自分の体に怒鳴った。
リューリックが横で言った。
「殿下、とうとうご自身の肉体と会話を」
「うるさい!」
「家令の家系の副業の本義として、肉体側に同情いたします」
「主君に同情しろ!」
笑っている暇はなかった。
三人目が、南棟へ走った。
そこには、歩けない患者がいる。
ヴェラが、そちらへ走りかけた。
俺の方が先に動いた。
動けた、というより、倒れ込む方向を選んだ。
肩から突っ込み、相手の膝に体をぶつける。
相手が崩れた。
斧が俺の右腕を掠めた。
熱いものが走る。
血が出た。
深くはない。
たぶん。
たぶんであってくれ。
ヴェラが叫んだ。
「レオン!」
その声は、医者の声ではなかった。
夜の女の声でもなかった。
どちらでもない、ただのヴェロニカの声だった。
俺は、その声だけで少し笑った。
笑ったら、腹が痛かった。
◇
襲撃は長くは続かなかった。
イタリカ軍の歩哨が持ちこたえ、補給係と担架兵が患者を避難させ、リューリックが前線を塞いだ。
報復隊は、火をつける前に崩れた。
ただし、病院側にも負傷者は出た。
俺も、その一人になった。
手術台の上で、俺は目を半分だけ開けていた。
ヴェラの手は迷わなかった。
切る。
引く。
縫う。
結ぶ。
四つの動作が流れるように続いた。
昨夜、俺の頬の脇で迷った手は、ここにはいない。
医者の手に戻っていた。
「傷、浅い」
「なら、大げさに縫うな」
「うるさい。患者は黙れ」
「夜のヴェラは、もう少し優しかったぞ」
縫合針が、少しだけ強く入った。
「ッ!」
「昼の私に、夜の話をするな」
「効いた」
「よく効くだろう」
「外科医、怖い」
「今さら気づいたのか」
ヴェラは、ふっと笑った。
その笑いは、もう笑いではなく、たぶん彼女の中の境界線の新しい引かれ方そのものだった。
新しい境界線は、医者の側と女の側の両方を含んでいた。
含んでいる、というのが、彼女のこれからの形だった。




