第五十三部 白鷹門の湯と、護衛料を少しだけ前払いする話 ② 診療天幕と、白鷹門の湯
診療天幕へ戻ると、年配の衛生兵が俺とカミラを順番に診た。
俺は、左上腕の縫合、腹の浅い裂傷、背中の打撲、煙を吸った喉。
カミラは、左肩の打撲、右手の浅い火傷、外套の下へ残った細かな切り傷。
どちらも、今すぐ死ぬ傷ではない。
ただし、どちらも放置してよい状態ではない。
「煤と汗を落とせ」
衛生兵は言った。
「傷の周囲へ汚れを残すな。白鷹門の東側斜面には、小さな湯が湧いている。昔から門番と旅人が使う浴場だ。湯で身体を拭き、傷の周りを洗え」
俺は少しだけ顔を上げた。
「湯?」
「ああ」
「浸かってよい?」
「お前は駄目だ」
即答だった。
「腹と腕を湯へ沈めるな。腰より下だけなら、短時間は構わない。長く入るな。立ちくらみが出たら、すぐに呼べ」
「どこまでが短時間?」
「変な解釈をするな」
「極めて真面目に聞いている」
「顔が真面目ではない」
厳しい。
だが、かなり良い情報だった。
衛生兵は、次にカミラを見る。
「監察官殿も、右手は湯へ入れないでください。左肩も温めすぎないように。傷を洗ったら、早めに上がること」
「分かった」
カミラは頷いた。
「一人で問題ない」
「念のため、外へ兵を置きます」
衛生兵は言った。
「火災後で、浴場の仕切りも一部が傷んでいる。奥の女湯は樋が詰まりやすい。湯が溢れた場合は、入口側の浅い湯船へ移ってください」
非常に重要な情報だった。
「何を考えている」
カミラが訊いた。
「衛生管理」
「本当に?」
「かなり」
「信用できない」
「実績がある?」
「ああ」
正確だった。
◇
白鷹門の東側斜面には、門壁へ沿うように低い石造りの浴場が残っていた。
古い関所には、長い街道を歩いてきた旅人、夜番を終えた門番、冬の雪に濡れた兵士が身体を温める場所が必要だったらしい。削れた石段の脇には薪小屋があり、湯気で曇った小窓の下には、何度も補修された跡が残っている。
入口には、男湯と女湯を示す古い木札が掛けられていた。
ただし、火災後の混乱で片方は泥に汚れ、文字の半分が読みにくい。中へ入ると、浴室は木壁と古い衝立で分けられているが、ところどころに新しい釘と古い縄が混ざっていた。
男女の浴室は、隣り合っている。
間を隔てる木壁は、背丈より少し高い。
極めて重要な構造だった。
「ロド」
後ろから、カミラの声が聞こえた。
「何だ」
「今、何を見た」
「建築」
「何のために」
「安全確認」
「浴室の構造を確認する必要があるのか」
「負傷者を一人にしない方が良い」
「外に兵士と衛生兵がいる」
「一緒に入る方が、効率的では」
「殺すぞ」
「合理的な提案だと思った」
「どこが」
木札が額へ当たった。
「痛い」
「生きているな」
「ああ」
「なら、先に入れ」
厳しい。
本当に。
だが、カミラの耳は少しだけ赤い。
悪くない。
かなり。
◇
湯は、思っていたよりも温かかった。
衛生兵が巻き直した油布を腹と左腕へ重ね、湯船の縁へ背を預けながら、傷へ触れない高さまで足を沈める。肩から上には、火と煙の匂いがまだ残っている。それでも、腰から下へ温かさが広がるだけで、固まっていた筋肉が少しずつ緩んでいった。
深く息を吐く。
白鷹門。
火。
鐘。
父。
レイラ。
金貨千枚。
ミハイル。
ヘスラー。
ハインリッヒ。
カミラ。
全部が、頭の中へ戻ってくる。
俺は十年近く戻らなかった。
戻らない理由は、いくつもあった。
奴隷施設。
傭兵。
生き延びること。
怖かったこと。
それでも、名前だけは俺より先へ歩き、人を集め、人を分け、人を燃やそうとした。
白鷹門の火は消えた。
だが、道は終わっていない。
円の中の目。
北方終端。
本人確認。
第二経路。
西へ。
旧五国連合域の先へ。
さらに遠くへ。
「考えすぎるな」
木壁の向こうから、カミラの声が聞こえた。
俺は少しだけ顔を向ける。
「入った?」
「入った」
「いつ」
「今だ」
湯気。
木壁。
衝立。
水音。
衣擦れ。
桶。
極めて重要な情報が多い。
「聞くな」
「何も言っていない」
「息がうるさい」
「生きている」
「静かに生きろ」
非常に難しい。
壁の向こうから、小さく水が跳ねる音がした。
カミラも湯へ入ったらしい。
右手は湯船の縁へ置き、左肩も沈めない。
たぶん。
そこまで考えたところで、木壁の向こうから深く息を吐く音が聞こえた。
普段のカミラは、気を抜かない。
宿でも。
街道でも。
荷車でも。
寝台でも。
紙を読む時も。
剣を抜く時も。
いつも少しだけ肩へ力が入っている。
その女が今だけは、湯の温かさへ身体を預けている。
壁の向こうで。
かなり近くに。
いる。
俺は、静かに目を閉じた。
見えない。
だが、悪くない。
たぶん。
少しだけ。
成長した。
その時、浴場の外から声が聞こえた。
「監察官殿」
年配の衛生兵だった。
「奥の樋が詰まりました。女湯の湯が溢れる前に、入口側の浅い湯船へ移ってください」
「分かった」
カミラの声。
「傭兵は」
「もう上がった頃でしょう」
衛生兵は答えた。
俺は、まだ上がっていない。
言うべきだった。
たぶん。
かなり。
言うべきだった。
だが。
少しだけ。
様子を見る。
傭兵として、状況確認は重要である。
木戸が開く音。
濡れた石床を踏む足音。
湯気。
衝立の向こうへ、細い影が入ってくる。
短い黒髪。
肩。
腰。
湯上がりの肌。
身体へ巻かれた薄い布。
かなり。
いや。
非常に。
良い。
事故だ。
完全に事故である。
俺は、湯船の縁へ背を預けたまま、呼吸を止めた。
カミラは、こちらへ気づいていない。
入口側の浅い湯船へ足を入れようとしている。
ここで急に声を掛ければ、驚かせる。
濡れた石床は滑る。
危険だ。
まず、安全確認を優先する。
静かに。
慎重に。
可能な限り長く。
「ロド」
カミラの声が、低く響いた。
気づいている。
かなり早い。
「何だ」
「なぜ、いる」
「衛生兵の指示を守り、長く浸からないよう注意していた」
「答えになっていない」
「上がろうとしていた」
「いつから」
「少し前から」
「正確には」
「極めて微妙な時間だ」
湯気の向こうで、カミラの目が細くなる。
「目を閉じろ」
「事故だ」
「閉じろ」
「安全確認が」
「閉じろ」
かなり惜しい。
本当に。
俺は、少しだけ考えた。
その一瞬が長すぎた。
カミラが桶へ手を伸ばす。
ただし、右手には火傷がある。
左肩も痛めている。
勢いよく投げることはできない。
助かった。
たぶん。
そう思った瞬間、カミラが足を滑らせた。
「危ない!」
反射的に身体を起こす。
湯船の縁へ右手を掛け、傷へ負担を掛けないよう身体を捻りながら、倒れてくるカミラの腰へ腕を回した。
支える。
ただし、勢いまでは止められない。
濡れた石床。
浅い湯船。
古い衝立。
俺も体勢を崩し、カミラを抱えたまま、入口側の湯へ倒れ込んだ。
水が跳ねる。
衝立が揺れる。
古い木壁の留め具が外れ、一部が大きな音を立てて倒れた。
──第五十三部 了




