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第五十三部 白鷹門の湯と、護衛料を少しだけ前払いする話 ① 後処理と、一枚の命令書

白鷹門の火が消えたあとも、中央広場から人の声が途切れることはなかった。


 古い防火水路から流れ出した雪解け水は、黒松脂と油を吸った煤を石畳の低い場所へ押し流し、西門の下には泥と濡れた灰が幾筋も残っている。倒れずに済んだ門壁の近くでは、グランデル帝国北方軍の兵士と荷役の男たちが、焼けた木箱、濡れた麦袋、割れた油壺を順番に運び出していた。


 診療天幕の周囲では、衛生兵が火傷、打撲、煙を吸った者を分けて診ている。救恤調整室の書記官は、水へ濡れた紙を一枚ずつ布の間へ挟み、誰が、どこで、どの袋から回収したのかを書き添えていた。


 死者は出なかった。


 それだけで、十分に奇跡へ近い。


 ただし、奇跡が起きたからといって、仕事まで消えるわけではない。


 円の中の目が押された指示書。


 旧リュカリオン王宮の保守記録。


 保安監督室が使っていた、青いインクの正規線。


 その横へ、髪の毛ほど細く後から足された青い細線。


 同じ家族名と整理番号を持ちながら、異なる行き先が書かれた二枚の移送札。


 一枚には、旧境帰還準備地。


 もう一枚には、北方労務予備区。


 全部を一つの机へ集めれば、また燃やされる。


 だから、カミラは濡れた外套のまま、長机の前へ立っていた。


「原本は三つに分ける」


 低い声で言い、火傷した右手を冷水へ浸しながら、左手で紙の位置を示す。


「二枚の移送札は、違いそのものが証拠になる。離すな。ただし、原本を一か所へ置くな。写しは、ヴァルター軍監、北方第三巡察隊、白鷹門の診療天幕へ一組ずつ送れ」


 若い書記官が、慌てて筆を動かす。


「青い細線入りの札もですか」


「ああ。正規の青い線と、後から足された細線を同じ紙の上で比較できる形へ残せ。線だけを書き写すな。紙質、折り方、滲み、印章、回収場所も書け」


「保安監督室へは」


「渡す」


 カミラは、少し離れた場所に立つコンラート・ヘスラー大佐へ視線を向けた。


「ただし、原本を一か所へ集めない。大佐自身の責任を調べる紙でもある。だからこそ、見せない理由はない」


 灰色の髪を濡らしたヘスラーは、すぐには答えなかった。


 自分が作った仕組みへ、別の意図が寄生した。


 北方を守るために必要だと信じ、旧五国出身者を登録し、家族を照合し、救恤を効率化するために使った分類が、働ける男を家族から切り離し、反乱軍へ見せかけ、火の中へ閉じ込める道具へ変えられた。


 認めるのは、簡単ではない。


 本当に。


「異論はない」


 ヘスラーは、やがて答えた。


「保安監督室の印がある紙も、俺の名で出た命令も、全部残せ」


「大佐」


 副官が顔を向ける。


「責任追及へ使われます」


「当然だ」


 ヘスラーは声を荒らげなかった。


「北方を守る必要はある。旧籍照合も、家族記録も、救恤も必要だ。だが、行き先を隠した移送と、忠誠登録を条件にした配給は止める。正式な命令として書き直せ」


「承知しました」


 ハインリッヒ・フォン・ホルマンは、長机の反対側で紙を確認しながら頷いた。


「ヴァルター軍監へは、俺からも報告します。白鷹門の閉鎖中止、移送停止、監査受諾、証拠の分散保管、円の中の目の構成員と思われる男の拘束。副官の負傷も」


 脇腹を切られた副官は、診療天幕で縫合を受けている。


 重傷ではない。


 だが、軽く扱ってよい傷でもない。


「黒い外套の男は、予定どおり軍監直轄へ送る」


 ヘスラーが言った。


「保安監督室の人間は、護送にも尋問にも加えるな。俺の名で出した命令として記録へ残せ」


 ハインリッヒは、紙へ視線を落としたまま頷いた。


「承知しました。護送班は北方第三巡察隊から選びます。経路も一つへ固定しません」


「それでいい」


 ヘスラーは、長机へ並べられた二枚の移送札を見た。


「俺の部署へ入り込まれた可能性がある以上、俺自身も監査対象から外すな」


 副官が顔を上げる。


「大佐まで?」


「ああ」


 ヘスラーは答えた。


「責任を調べるための監査だ。責任者だけを外して、何を調べる」


 声は低い。


 言い訳もない。


 それでも、自分が必要だと考えてきた仕組みまで、簡単に捨てるつもりはないらしい。


「北方を守る仕事は続ける。ただし、隠さない。止められた命令も、間違えた判断も、全部残せ」


 ハインリッヒは、ほんの少しだけ目を細めた。


「ヴァルター軍監へ、そのまま報告します」


「そうしろ」


 少し前に、ヴァルター軍監も同じような判断をした。


 人を信じることと、人が迷う可能性を無視することは違う。


 簡単ではない。


 だが、たぶん、それでいい。



 ◇



 俺は、長机から少し離れた木箱へ座り、極めて真面目な顔で政治的な後処理を聞いていた。


 正確には、聞こうとしていた。


 左腕。


 腹。


 背中。


 全部が痛い。


 煙を吸った喉も乾いている。


 さらに視線を少し右へ向けると、火と水と汗で濡れたカミラの外套が、まだ身体へ張り付いている。


 肩。


 胸元。


 腰。


 非常に良い。


 政治は難しい。


 だが、努力すれば聞ける。


 たぶん。


「どこを見ている」


 カミラは紙から目を離さずに言った。


「聞いている」


「視線の話だ」


「全体の安全確認」


「何の安全だ」


「監察官は厳しいな」


「答えろ」


 右手は冷水へ浸したままなので、すぐには殴れない。


 左肩も痛めている。


 今なら、ある程度は安全である。


 たぶん。


「濡れた外套は体温を奪う」


 俺は言った。


「非常に心配している」


「視線を下げながら言うな」


「どこまで濡れているか、正確に確認する必要がある」


 ハインリッヒが、紙から顔を上げた。


「病院で隣の寝台へいた頃より、悪化しているな」


「何が」


「全部だ」


 厳しい。


 本当に。


 カミラの眉間へ深い皺が入る。


「火傷していなければ、殴っている」


「かなり運が良い」


「あとで覚えていろ」


「覚えておく」


「そこだけ素直になるな」


 悪くない。


 かなり。



 ◇



 ハインリッヒは、長机へ一枚の命令書を置いた。


 ヴァルター軍監の封蝋。


 偽帰還令事件の重要証人。


 軍監直轄の保護拘束。


 身元確認対象。


 指名手配は有効。


 懸賞も有効。


 金貨千枚。


「非常に嫌な紙だな」


 俺は言った。


「俺も、好きで持ってきたわけではない」


「病院で隣の寝台だった縁で、破ってくれる?」


「破れば、俺が帝国軍人ではなくなる」


「融通が利かない」


「お前の首へ金貨千枚が掛かっている以上、善意だけで扱う方が危険だ」


 正しい。


 非常に。


 白鷹門の中央広場で、一度値段を知られた視線は簡単には戻らなかった。火を消すために桶を回した兵士の中にも、俺の首を見た者はいる。


 全員が悪人である必要はない。


 土地。


 借金。


 病気。


 家族。


 未来。


 金貨千枚があれば、変えられるものは多い。


「今夜は、白鷹門の内側へ置く」


 ハインリッヒは続けた。


「旧門番詰所を使う。巡察隊と俺の部下で交代しながら警備する。明日以降については、ヴァルター軍監の正式命令を待つ」


「牢屋?」


「診療天幕より、少し静かな部屋だ」


「鍵は」


「外から掛ける」


「牢屋では」


「毛布はある」


「少し改善した」


 カミラが顔を上げた。


「逃げるな」


「努力する」


 目が細くなる。


「守れ」


「守る」


 言い直すと、カミラはほんの少しだけ表情を緩めた。


 ハインリッヒが短く息を吐く。


「病院へいた頃より、扱いやすくなったのか、悪化したのか分からないな」


「成長した」


「自分で言うな」


「最近、よく言われる」


「正しいからだ」


 帝国軍人まで厳しい。


 本当に。



 ──第五十三部 了


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