第五十二部 火を選ぶ目と、水を返す門の話 ④ 回収された紙と、拘束された男
水門室から回収された紙は、濡れないよう別々の布へ包まれた。
円の中の目が押された指示書。
旧リュカリオン王宮の保守記録。
青いインクの線が入った正式な分類札。
そして、同じ青色へ紛れ込ませるよう、細い線を後から足された移送札。
二枚の札には、同じ家族名と、同じ整理番号が書かれている。
ただし、行き先が違う。
一枚には、旧境帰還準備地。
もう一枚には、北方労務予備区。
救うための紙。
帰すための紙。
働ける者を分ける紙。
同じ名前を使いながら、人を別の道へ動かす紙。
カミラは右手を冷やしながら、二枚の移送札を見比べた。
「線が違う」
言う。
「同じ青に見える」
俺が答える。
「ああ。片方は、保安監督室が分類へ使う青いインクの線だ。もう片方には、正式な線の横へ、髪の毛ほど細い線が足されている」
「青い細線」
「ああ」
カミラは紙へ指を近づける。
「正規の書式を全部作り直す必要はない。一枚だけ混ぜる。細い線を足し、行き先だけを変える。それで、人は別の場所へ送られる」
ヘスラー大佐が、少し離れた場所から紙を見る。
「俺の仕組みへ寄生した」
「ああ」
カミラは答える。
「あなたの命令そのものが、すべて間違っていたわけではない。だからこそ、使われた」
ヘスラーは、しばらく黙った。
それから、副官へ命じる。
「移送札をすべて回収しろ。ただし、燃やすな。正式な札も、青い細線が入った札も、混ざったまま残せ」
「混乱します」
「混乱した記録を残す」
ヘスラーは言った。
「誰が、どの書式へ、何を足したか調べる。俺の責任も含めて」
ハインリッヒが、ほんの少しだけ目を細める。
「監査へ従うのですか」
「従う」
ヘスラーは答える。
「ただし、北方を守る必要があるという判断は変えない」
「それでいい」
カミラが言った。
「全部を捨てろとは言っていない。隠すなと言っている」
ヘスラーは短く頷いた。
「連絡士官」
「はい」
「ヴァルター軍監へ、俺の名で報告を出せ。移送停止、札の全回収、分散保管、監査受諾。白鷹門の閉鎖は中止する」
「承知しました」
「それから」
ヘスラーは、濡れた石畳へ座らされている黒い外套の男を見る。
「こいつを、保安監督室へ渡すな。軍監直轄で扱え」
ハインリッヒの目が、わずかに動く。
「よろしいのですか」
「俺の部下へ、どこまで入り込まれているか分からない」
ヘスラーは答えた。
「自分の部署を信用していないのではない。信用できない可能性を、無視しないと言っている」
それは、ヴァルター軍監が金貨千枚の首を扱う時に出した判断と、少しだけ似ていた。
人を信じる。
ただし、迷う可能性も計算へ入れる。
簡単ではない。
それでも、たぶん必要だった。
◇
黒い外套の男は、帝国兵へ拘束されたまま、濡れた石畳へ座らされていた。
右腕から血が流れている。
致命傷ではない。
だが、もう短剣は握れない。
男は、俺、カミラ、ミハイル、ヘスラー、ハインリッヒ、その周囲にいる帝国兵と旧臣民、消えかけた火、崩れずに残った門を順番に見た。
「一つ止めただけだ」
笑う。
「火は、まだある」
「どこに」
カミラが訊く。
男は答えない。
ただ、濡れた紙束の一番下へ視線を落とした。
巡察隊の兵士が紙を拾う。
黒い縁取り。
青い細線。
円の中の目。
上部には短い文字が並んでいた。
北方終端、失敗。
旧名、本人確認。
第二経路へ移行。
西へ。
さらに、その下には別の一行がある。
レオン・ヴァン・リュカリオン本人を確認した場合、回収を優先。
俺は紙を見る。
「人気者だな」
言う。
カミラの眉が寄る。
「笑うところではない」
「少しだけ、嬉しい」
「何が」
「金貨千枚に加えて、地下組織からも回収対象になった」
「馬鹿か」
「かなり価値が高い」
「自分で言うな」
正確だった。
ハインリッヒが紙を受け取り、短く息を吐く。
「今後は、荷車から降ろさない方が良さそうだな」
「待遇が悪化している」
「毛布は掛ける」
「少し改善した」
「逃げるな」
「努力する」
カミラの目が細くなる。
「守れ」
「守る」
言い直す。
カミラは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
白鷹門の火は止めた。
七百人も、生きている。
偽王子だったミハイルは、自分の名前へ戻った。ヘスラー大佐は監査へ従い、ハインリッヒはグランデル帝国軍人として、俺を軍監直轄の保護拘束下へ置く。カミラも約束どおり戻った。
それでも、円の中の目は一つではない。
北方で失敗すれば、第二経路へ移る。
西へ。
旧五国連合域の先へ。
さらに遠くへ。
俺の名前は、まだ俺より先を歩いている。
水門の向こうで、残った水が流れ続けていた。
火は消えた。
だが、道は終わっていない。
──第五十二部 了




