第五十二部 火を選ぶ目と、水を返す門の話 ③ 重い音と、開いた水門
最初に聞こえたのは、地面の下から響くような重い音だった。
俺は中央広場の木箱へ座ったまま、顔を上げる。
西門の石壁、荷車置き場、燃えた木箱、麦袋、油樽。その下へ残っていた古い水路から、濁った水が一気に噴き出した。
雪解け水は泥、石、長い間水路へ溜まっていた枯れ枝を巻き込みながら、西門の下へ広がる。
「下がれ!」
声を張った。
「桶を置け! 水路から離れろ!」
人々が動く。
今度は、恐怖に押されて逃げるためではない。
互いへ声を掛け、子どもを抱き、老人へ手を貸し、水路の近くから順番に離れていく。
流れ出した水は、炎へぶつかった。
黒松脂、油、燃えた木箱、毛布、荷車、巻き上げ機を支える梁。そのすべてが白い蒸気と黒煙を一度に上げ、少しずつ押し流されていく。
完全に消えるわけではない。
それでも、門は落ちない。
石壁も崩れない。
西へ抜ける道も残る。
中央広場へ閉じ込められた七百人は、火と門の間へ押し込まれずに済む。
「開いた」
近くで、ミハイルが言った。
「ああ」
俺は答える。
「開けた」
誰が、とは言わない。
分かっている。
かなり。
ハインリッヒは、西門へ水が広がる様子を確認すると、すぐに兵士へ命じた。
「消火班は、水路から一度離れろ! 流れが落ち着いたら、残った火種を潰せ! 梁の状態も確かめろ! 巻き上げ機へ近づく時は、必ず二人以上で動け!」
兵士たちが声を返す。
誰か一人の英雄だけで、門を守ったわけではない。
カミラが水門を開き、巡察隊の兵士と副官が支え、ハインリッヒが人を動かし、ミハイルが群衆を止め、人々自身が水桶を回した。
俺は座っている。
それでいい。
たぶん。
今は。
◇
旧税関詰所の裏口から、最初に出てきたのはハインリッヒの副官だった。
脇腹へ布を押し当てている。
その後ろから、巡察隊の兵士が二人続く。一人は黒い外套の男を引きずり、もう一人は紙束と二枚の移送札、折り畳まれた保守図面を抱えていた。
最後に、カミラが出てくる。
短い黒髪は、水と汗と煤で頬へ張り付き、外套の胸元も袖も濡れている。右手の手袋は焦げ、左肩を庇うように少しだけ身体を傾けていた。
それでも、歩いている。
戻った。
必ず。
約束どおり。
俺は木箱から立ち上がろうとした。
「座っていろ!」
遠くから、カミラが怒鳴る。
「迎えに」
「座れ!」
「かなり良い場面だと思うが」
「傷を開くな!」
厳しい。
本当に。
だが、正しい。
俺は座り直す。
少しだけ、成長した。
カミラが、こちらまで歩いてくる。
近づくにつれ、濡れた外套が身体へ張り付き、肩から胸元、腰へ続く線まで、普段よりかなり正確に分かることに気づいた。
非常に良い。
無事であることを確認するには、全体を丁寧に見る必要がある。
たぶん。
「戻った」
カミラが言った。
「ああ」
「何を見ている」
「生存確認」
「どこまで」
「全体を」
カミラの目が細くなる。
「事故だ」
「何が」
「かなり濡れている」
「見れば分かる」
「非常に」
「黙れ」
カミラは焦げた右手袋を外し、そのまま俺の額へ手を伸ばした。
殴るのだろう。
たぶん。
かなり弱く。
そう思った。
だが、手は額へ触れる直前で止まった。
火傷が痛むらしい。
カミラは少しだけ眉を寄せる。
俺は、その右手を掴んだ。
「冷やす」
「今は」
「約束した」
カミラが黙る。
煙、水、火、帝国兵、旧臣民、金貨千枚の首、倒れずに残った白鷹門。その全部の中で、カミラの火傷した右手だけを少し持ち上げる。
「約束しただろ」
もう一度言う。
カミラは、しばらく俺を見た。
それから、ほんの少しだけ目を逸らす。
「……覚えていたのか」
「かなり重要だった」
「そうか」
低い声。
いつもより、少しだけ柔らかい。
「なら、冷やせ」
「ああ」
「ただし」
カミラは濡れた外套を見下ろした。
「見るな」
「非常に難しい命令だな」
「守れ」
俺は、少しだけ考えた。
本当に。
かなり。
惜しい。
それでも。
「守る」
答えた。
カミラが、ほんの少しだけ驚いた顔をする。
それから耳を赤くしたまま、俺の額へ指を軽く当てた。
「遅い」
痛くはない。
むしろ、かなり良い。
少し離れた場所では、ハインリッヒが副官の脇腹を衛生兵へ見せながら、こちらを一度だけ見た。
「病院へ戻す患者が、また増えたな」
「俺は患者ではない」
カミラが言う。
「火傷した手で言うな」
「浅い」
「動けると言い張る患者は、隣の寝台だけで十分だ」
帝国軍人まで厳しい。
本当に。
──第五十二部 了




