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第五十二部 火を選ぶ目と、水を返す門の話 ② 水門室と、火縄を落とした男

 水門室は、思っていたより広かった。


 石壁へ囲まれた部屋の中央には、大人の腕ほど太い木の取っ手があり、鉄の歯車と鎖が天井へ向かって伸びている。奥の壁からは、閉じ込められた水の重い音が聞こえていた。


 白鷹門は帝国の関所として使われ続けている。


 旧王家の紋章は削られても、荷車置き場と門を火災から守る設備まで捨てる理由はない。定期的に最低限の整備はされていたらしく、水槽にはまだ水が残っている。


 流せる。


 たぶん。


 ただし、部屋には先客がいた。


 黒い外套。


 痩せた男。


 煤で顔の半分を汚し、右手には火縄、左手には小さな紙束を持っている。


 紙束の一番上には、円の中の目が押されていた。


「遅い」


 男は言った。


 配給所の裏で捕らえた書記服の男と、同じ言葉。


「そうでもない」


 カミラは答えた。


「水は、まだ残っている」


「流せばいいと思っている?」


「違うのか」


「流せるなら、とっくにこちらで流している」


 副官が歯車へ視線を向ける。


 木の取っ手の根元には黒松脂が塗られ、歯車の一部へ太い鉄杭が打ち込まれていた。


「固定されている」


 副官が言った。


「ああ」


 男は笑う。


「火を消すための水は流れない。門の下では梁が焼け、外門が落ち、石壁が崩れる。西へ抜ける道は塞がる」


「中央広場へ、人を閉じ込める」


 カミラが言った。


「それだけではない」


 男は、左手の紙束を少しだけ持ち上げる。


「グランデル帝国軍は旧臣民を閉じ込めた。旧臣民は帝国兵へ刃を向けた。亡国の王子は帰還を宣言し、帝国へ反乱を始めた。火は、記録を選ぶ」


 低く、穏やかな声だった。


 それが余計に不快だった。


「要らない紙だけ燃え、必要な紙だけ残る。必要な死者だけが生まれ、必要な怒りだけが次の国へ届く」


 カミラは、男の持つ紙束へ視線を向けた。


 移送札。


 一枚ではない。


 二枚。


 同じ家族名。


 同じ整理番号。


 ただし、行き先が違う。


 一枚には、旧境帰還準備地。


 もう一枚には、北方労務予備区。


 片方の札には、保安監督室が分類へ使っている青いインクの線が引かれている。


 もう片方には、同じ青色へ紛れ込ませるように、髪の毛ほど細い線が後から足されていた。


 青いインクの正規網。


 その上へ寄生する、青い細線。


 帰還。


 保護。


 再建。


 穏やかな言葉の裏側で、働ける者だけを分け、番号へ戻し、別の場所へ送る。


 カミラの右手へ痛みが走った。


 火傷のせいではない。


 昔の紙を思い出した。


 番号。


 歯。


 体格。


 働けるか。


 逃げたことがあるか。


 名前ではなく、番号で呼ばれた日々。


「火は、紙を選ばない」


 カミラは言った。


 男の笑みが、少しだけ薄くなる。


「何?」


「火は何も選ばない」


 低い声だった。


 だが、迷いはない。


「選んだのは、あんただ」


 カミラは短剣を構える。


「人を番号へ戻したのも、家族を二枚の札へ分けたのも、グランデル帝国軍と旧臣民を殺し合わせようとしたのも、全部あんただ」


「監察官らしい言葉だ」


「監察官だからな」


「元奴隷の?」


 男は言った。


 部屋の空気が、わずかに変わる。


 副官も、巡察隊の兵士も、カミラを見る。


 円の中の目は、イタリカから逃れた監察官を追い、奴隷だった頃の記録まで調べている。


 不快だった。


 だが、それ以上に腹が立つ。


「番号で呼ばれていた女が、今は紙を守る側へいる。面白い」


 胸の奥へ、古い冷たさが戻った。


 鉄。


 床。


 鎖。


 名前を呼ばれない日々。


 それでも、今は違う。


 レオンが言った。


 お前も、カミラ・パヴェルだ。


「名前を知っているなら、呼べ」


 カミラは言った。


 男の眉が、わずかに動く。


「私は、カミラ・パヴェルだ」


 短剣を握り直す。


「監察官として、あんたを止める」



 ◇



 黒い外套の男が、火縄を落とした。


 木の取っ手の根元へ塗られた黒松脂へ向けて。


 副官が踏み込み、剣を振る。


 男は半歩だけ下がり、左手の紙束を放った。青いインクの線、細い青線、二枚の移送札、家族名、整理番号が水門室へ散り、副官の視線が一瞬だけ揺れる。


 その隙へ、男は短剣を抜いた。


「下がれ!」


 カミラが叫ぶ。


 副官は体を捻り、致命傷だけは避けたが、刃は脇腹を浅く裂いた。巡察隊の兵士二人が左右から踏み込むものの、男は正面から受けず、歯車、鎖、木の取っ手、狭い部屋の幅まで使いながら、二人の間を抜ける。


 慣れている。


 人を殺すことに。


 逃げることに。


 紙を燃やすことに。


 カミラは短剣を右手へ持ったまま、男の動きを見る。


 左肩は使えず、右手にも火傷がある。力で押し切ることはできない。


 だから、待つ。


 男が、もう一度木の取っ手へ向かう。


 最初に落とした火縄は兵士が踏み消したが、赤い火種が一つだけ床の隙間へ転がり、黒松脂の近くで小さく煙を上げ始めていた。


 男の意識が、そこへ向く。


 その瞬間だけ、カミラは前へ出た。


 短剣の柄を、男の右手首へ打ち込む。


 火傷した掌へ痛みが走ったが、離さない。男の手から予備の火縄が落ち、巡察隊の兵士が踏み消した。


 男は左手で、別の短剣を抜く。


 刃は、カミラの胸元へ向かった。


 近い。


 避けきれない。


 その時、副官が横から体を入れ、剣の腹で男の腕を押し上げた。短剣はカミラの外套を裂き、鎖へ当たって甲高い音を立てる。


「今だ!」


 副官が叫ぶ。


 巡察隊の兵士が一人、男の膝裏へ蹴りを入れる。


 体勢が崩れた。


 カミラは、男の胸ではなく、短剣を持つ腕の付け根へ刃を入れた。


 深く。


 ただし、殺さない。


 腕を止める。


 男が息を漏らし、短剣を落とす。もう一人の兵士が背中へ乗り、腕を捻り上げ、副官も剣を向けた。


「動くな!」


 黒い外套の男は、床へ押さえつけられたまま、それでも笑った。


「遅い」


 また、同じ言葉。


 カミラは水門の取っ手へ顔を向ける。


「杭を抜け!」


 副官と兵士が鉄杭へ剣の鞘を差し込み、梃子のように使う。


 動かない。


 煙が濃くなる。


 木の取っ手の根元では、床の隙間へ転がった火種が黒松脂へ触れ、小さな炎を作っていた。


 すぐに消さなければ広がる。


 カミラは近くの水桶を掴み、取っ手の根元へ掛けた。


 足りない。


「もう一度!」


 副官が言った。


 三人で鉄杭へ力を掛ける。


 金属が軋み、少しだけ動く。


 だが、抜けない。


 床へ散った紙の間で、黒い外套の男が笑っている。


「流れない」


 カミラは歯車と鎖、鉄杭の位置を見直した。


 その時、二枚の移送札の下に、折り目の付いた古い図面が見えた。黒い外套の男が水門を固定するために持ち込んだ、旧リュカリオン王宮の保守記録らしい。


 図面には、黒い印で二か所が囲まれている。


 固定杭は、一つではない。


「上だ!」


 カミラが叫ぶ。


 副官が顔を上げる。


「何が」


「固定杭は二本ある。下だけではない。歯車の裏側、上の鎖の近くにもある!」


 巡察隊の兵士が燭台を持ち上げる。


 煙の向こう、歯車の裏側に、もう一本の細い鉄杭が見えた。


「届かない」


 兵士が言う。


「肩を貸せ」


 カミラは答えた。


「監察官」


「早く」


 左肩は使えず、右手も痛む。


 それでも兵士の肩へ右足を掛け、壁へ手を添えながら身体を持ち上げる。


 煙と熱の向こうにある鉄杭へ、指先が届いた。


 火傷した右手で掴む。


 痛い。


 かなり。


 それでも、抜く。


「一緒に!」


 カミラが叫ぶ。


 下では副官と兵士が最初の杭へ力を掛け、上ではカミラが二本目を引く。


 金属が軋む。


 手袋が滑る。


 火傷した掌から力が抜けそうになる。


 その時、レオンの声が頭の中へ戻った。


 戻れ。


 必ず。


 カミラは歯を食いしばる。


「抜けろ!」


 二本の鉄杭が、ほとんど同時に外れた。


 歯車が動く。


 最初は、ゆっくりと。


 次の瞬間、一気に。


 鎖が走り、木の取っ手が回り、石壁の奥から押し込められていた水の音が近づく。


「下がれ!」


 副官が叫ぶ。


 カミラは兵士の肩から降り、黒い外套の男を拘束したまま、全員が壁際へ寄る。


 白鷹門の防火水門が開いた。



 ──第五十二部 了


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