第五十二部 火を選ぶ目と、水を返す門の話 ① 重い鐘と、水門室へ
西門の上で鳴った鐘の音は、白鷹門の古い石壁へ重くぶつかり、煙に覆われた中央広場の上へ低い余韻を残した。
火事を知らせる鐘ではない。人を集めるための鐘でも、警備交代の合図でもなかった。
俺は幼い頃に、一度だけ同じ音を聞いたことがある。
まだレイラが厚い手袋を両手にはめ、雪の積もった白鷹門へ来るだけで機嫌を良くしていた頃、父と門番に連れられて、門壁の内側へ残る防火設備を見学したことがあった。冬の間に貯めた雪解け水を水槽へ残し、荷車置き場や門の下で火災が起きた時には、古い水路を開いて一気に流す。その開閉機が正常に動くか確かめるため、門番が鐘を一度だけ長く鳴らした。
普段は使わない、非常時だけの音だった。
ただし、今その鐘を鳴らしたのは味方ではない。
水門室へ続く道の先で、誰かが待っている。
「桶を止めるな!」
俺は木箱へ腰を下ろしたまま、中央広場へ向けて声を張った。
腹へ巻いた布の下では傷が熱を持ち、左上腕も呼吸へ合わせるように痛んでいる。立ち上がれば、まだ少しは動けるかもしれない。
だが、動かない。
今は中央広場へ残る。
カミラは、ハインリッヒの副官と巡察隊の兵士二人を連れ、旧税関詰所の奥へ向かった。水門室までの道を知っているのは俺だが、すべての火へ自分で飛び込まなければ守れないわけではない。
王子へ戻らないと言った直後に、また一人で傷を増やせば、自分の言葉が嘘になる。
「水桶は左から回せ! 空いた桶は右側へ戻せ! 井戸の前を塞ぐな! 医者と衛生兵が通る道を残せ!」
七百人近い人々は、少しずつ自分の役割を見つけ始めていた。
濃い青線の札を渡され、西門の近くへ集められていた男たちは、反乱軍として利用される代わりに、帝国兵と同じ列へ並んで水桶を運んでいる。荷役の男は長い棒で燃えた木箱を引き離し、女たちは濡らした毛布を受け渡し、書記官は抱えていた紙束を机へ置いて、火傷を負った者の手へ水を掛けていた。
グランデル帝国北方軍の鷲旗と、旧リュカリオンの白鷹旗。
二つの旗が、同じ煙の中で揺れている。
十年前の戦争が消えたわけではない。
父が処刑されたことも、国が滅びたことも、俺がグランデル帝国の強制労働施設へ送られたことも、中央広場にいる者たちが冬を越せずに家族を失ったことも、何一つ消えない。
それでも今は、同じ火を消している。
それでいい。
◇
俺の少し前では、ハインリッヒ・フォン・ホルマンが中央広場と西門を交互に見ていた。
剣は抜いたままだが、切っ先を人へ向けてはいない。軍監付連絡士官として兵士へ命令を出しながら、水桶を運ぶ人々の流れが途切れそうな場所へ兵を回し、転んだ者が出れば、その周囲だけ槍を立てて空間を作らせている。
トルガウのグランデル帝国軍野戦病院で、隣の寝台へいた頃と同じ顔だった。
感情を表へ出さない。
必要なものを見る。
余計なことは言わない。
ただし、俺が立とうとして木箱へ手を掛けると、こちらを見ないまま言った。
「座っていろ」
「まだ何もしていない」
「立とうとした」
「火がある」
「知っている」
「水門室にはカミラが行った」
「知っている」
「俺も少しだけ」
「座っていろ」
厳しい。
本当に。
「病院で隣の寝台にいた時より、扱いが悪くなった気がする」
「病院では、医者と記録係が止めた。今は俺が止める」
「エルゼは、もう少し優しかった」
「比較するな」
「アーノルト軍医よりは」
「比較するな」
ハインリッヒはようやくこちらへ顔を向けた。
「一度、他人へ任せると決めたなら、最後まで任せろ。途中で不安になり、自分だけ飛び込めば、託された側を信用していないことになる」
返す言葉が、一瞬だけ止まる。
帝国軍人に言われるとは思わなかった。
「正しいな」
俺は言った。
「かなり」
「自分で言うな」
「最近、よく言われる」
ハインリッヒは中央広場へ視線を戻したが、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
◇
旧税関詰所の奥へ入ると、中央広場の喧騒は厚い布を一枚挟んだように遠くなった。
代わりに、燃えた黒松脂の匂いと湿った石壁の冷たさが強くなる。通路の奥では煙が天井へ滞留し、古い燭台の周囲だけが薄暗く揺れていた。
先頭を歩くのは、ハインリッヒの副官である。
後ろには巡察隊の兵士が二人。
カミラは、左肩を庇いながら、その間を進んでいた。
右手の火傷は浅い。
ただし、手袋の内側では皮膚が熱を持ち、短剣を強く握れば痛む。左肩も、男を石畳へ叩きつけた時の衝撃が残っている。
動ける。
だが、動けることと、無傷であることは違う。
以前なら、無視した。
今は、無視しない。
一人で先頭へ立たず、副官へ前方を確認させ、自分は床、壁、煙の流れを見る。
レオンに言われたからだけではない。
監察官として、必要な判断だった。
「最初の角を左」
副官が確認するように言った。
「ああ」
カミラは答える。
「その先に石段がある。途中で崩れている場所があるから、右側の壁へ沿え」
「ずいぶん詳しい」
巡察隊の兵士が小さく言った。
「王子だったからだそうだ」
副官が答える。
「菓子を盗むために使ったとも」
兵士は一瞬だけ黙った。
「……本当に、王子なのですか」
「たぶんな」
カミラは前を見たまま答えた。
「かなり馬鹿だ」
短い言葉だった。
だが、口元がほんの少しだけ緩む。
石段の途中は、レオンの記憶どおり崩れていた。
下から見れば通れないように思えるが、右側の壁へ身体を寄せれば、足を置ける幅が残っている。無理に走れば、崩れた石へ足を取られ、下へ落ちる。
「一人ずつ進め。壁へ沿え。急ぐな」
副官が最初に進み、兵士が続き、そのあとをカミラ、最後にもう一人の兵士が上る。
足元で小石が乾いた音を立て、暗い下方へ落ちていく。
走らない。
それでも、可能な限り急ぐ。
石段を上り切ると、突き当たりの壁には古い白鷹の浮き彫りが残っていた。翼、爪、雪を思わせる細い線。削り取ろうとした跡はあるが、それでも完全には消えていない。
「横だ」
カミラは言った。
浮き彫りの右側には、低い木戸がある。
鉄の取っ手。
隙間から漏れる煙。
副官が手を伸ばす。
「待て」
カミラは止めた。
扉の下には、薄く油が引かれている。そこへ細い火縄が張られ、木戸を開ければ引っ掛かるよう、ほとんど見えない高さへ結ばれていた。
「罠だ」
カミラは、右手で短剣を抜く。
火傷が痛む。
だが、動く。
「水を」
兵士が水筒を差し出す。
床の油へ少しずつ掛け、火縄を濡らす。副官が長い剣の鞘で火縄を押さえ、カミラが短剣の先で慎重に切った。
何も起きない。
濡れた火縄だけが床へ落ちる。
「開ける」
副官が言った。
「ああ」
木戸は、低い音を立てながら動いた。
──第五十二部 了




