第五十一部 金貨千枚の首と、武器ではなく桶を持つ話 ④ 消える炎と、水門室で待つ誰か
西門の炎は、少しずつ勢いを失っていた。
完全には消えていない。
巻き上げ機を支える梁も一部は燃えているが、帝国兵が濡らした毛布を運び、荷役の男たちが長い棒で油樽を引き離し、水桶の列も途切れずに続いている。
鎖が外れる前に、梁へ届いた炎を止められる可能性はある。
その時、配給所の裏側から、カミラの声が聞こえた。
「離れろ!」
直後、布を裂くような音が上がり、天幕の一つから炎が噴き出した。
人々の間から悲鳴が上がる。
ただし、今度は全員が走らなかった。
近くにいた帝国兵が天幕へ向かい、巡察隊の兵士が周囲の人々を離す。水桶の列から何人かが抜け、燃え上がった布へ水を掛けた。
「カミラ!」
反射的に立とうとした瞬間、腹へ強い痛みが走った。
木箱へ手を掛ければ、動けないことはない。
たぶん。
「座っていろ!」
天幕の裏側から、カミラの声が返ってきた。
怒鳴っている。
生きている。
少しだけ息を吐く。
守るために。
戻るために。
今は、座る。
ハインリッヒが、こちらへ視線を向けた。
「立たないのか」
「座っていろと言われた」
「聞くようになったらしいな」
「かなり成長した」
「自分で言うな」
カミラが、天幕の横から姿を見せた。
短い黒髪へ煤が付き、右手の手袋はさらに焦げている。左肩も痛むはずだが、後ろには巡察隊の兵士が二人、さらに救恤調整室の腕章を付けた若い男を一人、両側から拘束して連れてきていた。
「見つけた」
カミラが言った。
「配給用の木箱の底へ、油壺と火縄を隠していた。こいつが点火した」
拘束された男は、まだ二十代前半に見えた。痩せた頬、救恤調整室の腕章、書記服、目立たない顔立ち。
群衆へ紛れ込むためには、よくできた外見だった。
だが、口元には笑みが残っている。
「遅い」
男は言った。
カミラの眉が寄る。
「何が」
「火は、もう入っている」
ハインリッヒが顔を上げた。
「どこへ」
男は答えない。
ただし、視線が動く。
西門で燃える炎から巻き上げ機へ、さらにその上にある石壁と鐘塔へ。
俺も、その先を見た。
門壁の上へ立っていた黒い外套の男は、もういない。
代わりに、鐘塔の細い窓から黒い煙が滲み出している。
「上だ!」
ハインリッヒが叫んだ。
火が入ったのは、西門の下だけではない。
鐘塔から門壁の内側へ入り、旧税関詰所へ続く古い通路の先まで、別の煙が回っている。
その光景を見た瞬間、昔の記憶が戻った。
白鷹門には、雪解け水を貯める防火用の水槽がある。王宮の使節団や商隊が行き交う街道で火災が起きた時、荷車置き場と西門の下を一気に洗い流し、道を塞がないために作られた仕組みだった。
まだレイラが幼かった頃、冬の白鷹門で父と門番に連れられ、水門室へ入ったことがある。
壁へ取り付けられた大きな木の取っ手へ、子どもだった俺が触ろうとすると、非常時以外は絶対に動かすなと厳しく叱られた。
「防火水門」
俺は言った。
ハインリッヒが、こちらを見る。
「何だ」
「鐘塔の上に、古い防火水槽の開閉機がある。今も残っているなら、水を流せる」
「使えるのか」
「分からない」
「道は」
「旧税関詰所の奥。儀礼待合室へ入る前に、左へ分かれる階段があった」
ハインリッヒは、自分の副官へ顔を向けた。
「巡察隊の兵士を二人連れて行け。水門室を確認しろ」
「承知しました」
「待て」
俺は言った。
ハインリッヒが顔を向ける。
「何だ」
「階段の先は、途中で二つへ分かれる。片方は鐘塔、片方は水門室だ。昔、迷った」
「菓子を盗む途中で?」
ハインリッヒが訊いた。
老人が少しだけ顔を上げる。
俺は答えた。
「非常に重要な品質確認の途中で」
ハインリッヒの表情が止まる。
カミラも。
拘束された男さえ、少しだけ眉を動かした。
「案内する」
俺は木箱へ手を掛け、立ち上がろうとした。
腹へ強い痛みが走り、視界が一瞬だけ揺れる。
それでも。
「駄目だ」
カミラが言った。
低い声だった。
「道を知っている」
「説明しろ」
「階段の先は暗い。途中で石段が崩れている。言葉だけでは」
「駄目だ」
「時間がない」
「分かっている」
カミラは、俺の前へ立った。
煤の付いた頬、焦げた手袋、左肩を庇うようにわずかに傾いた姿勢。それでも、俺を見る目には迷いがない。
「あんたは、ここで人を止めろ」
「だが」
「王子へ戻らないと言った」
「ああ」
「なら、自分だけで全部を片付けようとするな」
胸へ刺さる。
本当に。
「道を教えろ。私が行く」
「肩が」
「兵を連れていく」
「手も」
「一人でやらない」
カミラは言った。
「守る」
少しだけ間が空く。
俺はカミラを見る。
以前なら、無理にでも立ち上がり、一緒に行くと言った。
止められても、たぶん行った。
だが今は、何度も俺を守ってきた女から、任せろと言われている。
「分かった」
答える。
カミラの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「道を教えろ」
「ああ」
頭の中へ残っている古い白鷹門の構造を辿りながら、ゆっくり道順を伝えた。
「旧税関詰所の奥へ入れ。儀礼待合室へ向かう通路を進み、最初の角を左へ曲がると石段がある。途中で崩れている場所があるから、右側の壁へ沿って進め。突き当たりに古い白鷹の浮き彫りが残っている。その横が水門室だ。中には、大きな木の取っ手がある」
「分かった」
「一人で引くな。重い。兵士と一緒に動かせ」
「ああ」
「黒い外套がいる」
「分かっている」
「危険なら」
言葉が止まる。
逃げろ。
そう言いたい。
だが、カミラは、たぶん逃げない。
俺と同じように。
「戻れ」
言った。
白樺礼拝堂で、カミラが俺へ言った言葉。
「必ず」
カミラは、しばらく俺を見ていた。
それから、ほんの少しだけ頷く。
「ああ」
低い声で答える。
「護衛料が、まだ未払いだからな」
口元が、少しだけ緩む。
俺も。
たぶん。
「かなり期待している」
「金だ」
「分かっている」
「本当に?」
「努力する」
カミラの眉が寄る。
「守る」
「最初から、そう言え」
正確だった。
ハインリッヒは自分の副官と巡察隊の兵士二人へ視線を向ける。
「監察官を守れ。水門を動かせるなら動かせ。ただし、無理に追うな。証拠を見つけた場合は、燃やされる前に分けて持て」
「承知しました」
カミラは、ハインリッヒの副官と巡察隊の兵士二人を連れ、旧税関詰所へ向かった。
傷を悪化させる無茶をしない範囲で、それでも可能な限り速く走る。
俺は、その背中を見送った。
追わない。
今は、任せる。
中央広場へ残り、火を消す人々を見ながら、自分の名前でもう一度声を上げる。
「桶を止めるな!」
西門の上で、鐘が一度だけ長く鳴った。
火事の鐘でも、集会の合図でも、警備交代を知らせる音でもない。
白鷹門の古い石壁を震わせるような、重い鐘の音だった。
水門室へ続く道の先で、誰かが待っている。
──第五十一部 了




