第五十一部 金貨千枚の首と、武器ではなく桶を持つ話 ③ 武器ではなく桶を持って
木箱へ座ったままでは、何もできない。
非常に不本意である。
ただし、立たなければ何もできないわけではなかった。
「水桶は左から回せ! 空桶は右へ戻せ! 子どもを抱いている奴は列へ入るな! 老人を座らせろ! 医者と衛生兵が通れる幅を残せ!」
中央広場へ向けて声を出す。
人々は、完全に命令だけへ従っているわけではない。
誰かが隣へ声を掛け、足りない場所へ自分で桶を運ぶ。泣いている子どもへ水を飲ませ、転んだ老人を起こす。
濃い青線の札を持っていた男が、札を外套の内側へ押し込み、帝国兵から桶を受け取る。隣では別の兵士が、鎧の袖を濡らしながら水を回していた。
紙の上では、反乱軍と鎮圧軍へ分けられる。
だが今は、同じ列へ並び、同じ火を消している。
ハインリッヒは俺の近くへ残り、中央広場と西門を交互に見ていた。
「立たないのか」
低い声で訊く。
「立つなと言われた」
「守る気はあるらしいな」
「かなり」
「病院では、歩くなと言われたあとで歩いて倒れた」
「今は座っている」
「驚いた」
「もっと評価してほしい」
「火が消えたら考える」
厳しい。
本当に。
その時、近くから声がした。
「殿下」
二重線の札を持っていた老人だった。
左脚を引きずりながら、木箱の近くまで来ている。
「座っていろ」
俺は言った。
「膝が悪いだろ」
「まだ、少しだけ働けます」
老人が持っているのは、小さな木椀だった。
桶を運ぶには重すぎる。
それでも井戸の近くから水を汲み、火傷を負った女の手へ掛けている。
「殿下」
もう一度、呼ぶ。
「王へ戻られないのですか」
すぐには答えなかった。
白鷹旗とグランデル帝国の鷲旗が並んで揺れる下で、人々が水桶を回し、目の前では火が燃えている。
その光景をしばらく見てから、ようやく口を開いた。
「戻らない」
老人の顔が、少しだけ曇る。
「ただし、逃げるわけではない」
老人は俺を見る。
「王ではなくても、できることはある。たぶん、まだ、よく分からないけど」
「分からない?」
「ああ」
正直に言う。
「俺は十年近く逃げた。戻ったと言うには遅い。王子へ戻ると言うには、たぶん早すぎる。だから、今は逃げないことだけ決める」
老人は、しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ頷く。
「それで、良いのかもしれません」
「本当に?」
「少なくとも」
老人は、火傷を負った女へもう一度水を掛けた。
「昔の殿下よりは、少しだけ人の話を聞いておられる」
厳しい。
「昔を知っている?」
「冬の式典で、菓子を二つ隠された」
「非常に重要な品質確認だった」
「陛下に叱られておられました」
「記憶違いでは」
「いいえ」
老人の口元が、少しだけ緩む。
悪くない。
かなり。
ハインリッヒが横から俺を見る。
「王子だった頃から、変わっていない部分もあるらしいな」
「品質確認は重要だ」
「そうか」
「信じていない?」
「かなり」
帝国軍人まで厳しい。
──第五十一部 了




