第五十一部 金貨千枚の首と、武器ではなく桶を持つ話 ② レオンと呼ぶカミラ、水桶の列
「レオン」
カミラの声が、すぐ近くから聞こえた。
「何だ」
「立っていられるか」
「かなり厳しい」
「正直で良い」
「褒められた?」
「今だけだ」
背中へ回された右腕には、先ほどより少し強く力が入っている。カミラ自身も左肩を傷め、火縄を握り潰した右手には浅い火傷を負っている。
それでも、俺を支える腕は離れない。
背中へ触れる身体は近く、温かい。外套越しにも柔らかさが分かる。
普段なら、どこまで体重を預ければ怒られずに済むか、どの角度なら事故として処理できるか、安全確認という言葉をもう一度使えるか、極めて慎重に検討したところだった。
だが、今は本当に余裕がない。
腹が、かなり痛い。
「座れ」
カミラが言った。
「まだ」
「倒れる前に座れ」
「ここで座ったら、見えない」
「全部を見る必要はない」
「俺の名前で集まった」
「あんたの名前で、集められた」
低く厳しい声だったが、その言葉は胸の奥へ残った。
「あんた一人で、全部を背負うな」
カミラは続ける。
「私がいる。ミハイルもいる。ハインリッヒも、ヘスラー大佐も、巡察隊も、今は動いている。桶を回している人間も、自分で考えて動いている」
カミラは視線を中央広場へ向けた。
「王子へ戻らないと言ったなら、全部を自分で抱えるな。任せろ」
以前なら、たぶん火の近くへ走った。
傷が開いても、倒れても、誰かを守るためなら自分だけは数から外してよいと思っていた。
白樺礼拝堂でも、そうした。
その結果、カミラは怖かったと言った。
あんたは守ると言ったあとで、いつも自分を数から外す。
私は、あんたを守る側へ数えている。
胸の奥では、リンデン診療所で空の硝子管を渡したニーナの声も戻っていた。
痛い時は、痛いと言え。
倒れる前に止まれ。
守るために、戻れ。
何度も思い出す必要はない。
今、本当に必要な時だけでいい。
「座る」
俺は言った。
カミラは一瞬だけ目を見開き、そのあと、ほんの少しだけ息を吐いた。
「最初から、そう言え」
「かなり難しい判断だった」
「自分で褒めるな」
「成長した」
「少しだけな」
カミラは中央広場の端へ置かれていた木箱まで俺を支え、ゆっくり腰を下ろさせた。
腹へ巻いた布を確かめる。
血は滲んでいるが、すぐに倒れるほどではない。
「動くな」
「努力する」
カミラの目が細くなる。
「守る」
「最初から、そう言え」
正確だった。
そのやり取りを聞いていたハインリッヒが、俺の腹へ巻かれた布を一度だけ見た。
「病院にいた頃より、少しは学んだらしいな」
「かなり成長した」
「自分で言うな」
「カミラと同じことを言う」
「正しいからだ」
帝国軍人まで厳しい。
本当に。
◇
西門の下では、水桶の列が少しずつ形になっていた。
井戸から汲み上げられた水は、帝国兵、旧臣民、書記官、荷役、女たちの手を通り、西門へ近い男たちまで届く。油と黒松脂を吸った炎は簡単には消えないが、燃え広がる速度は明らかに落ち始めている。
カミラは、火そのものだけを見てはいなかった。
油樽、黒松脂、木箱、荷車の位置と、石畳を走る炎の方向を一つずつ目で追い、やがて少しだけ眉を寄せる。
「おかしい」
「何が」
俺が訊いた。
「白樺礼拝堂では、人を囲むように火を走らせた。今回は違う」
カミラは、西門の下へ集まる黒煙を見た。
「中央広場全体へ火を回すのではなく、門の近くへ集中させている」
「門を焼く?」
「それだけなら、油樽の量が多すぎる」
ハインリッヒも、西門の巻き上げ機へ視線を向けた。
太い鎖。
歯車。
梁。
吊り上げられた外門。
兵士たちが水を掛けている場所。
「巻き上げ機だ」
低い声で言った。
ヘスラー大佐も、同じ場所を見る。
「炎は、門の閉鎖装置へ向かっている」
ハインリッヒは続けた。
「巻き上げ機を支える梁が焼け落ちれば、鎖が外れる」
「門が閉じる?」
「それだけでは済まない」
ヘスラーが答えた。
「旧五国側へ吊られている外門は重い。巻き上げ機が壊れれば、落下の衝撃で石壁の一部まで崩れる可能性がある。西門そのものを塞ぎ、旧五国側へ抜ける道を潰すつもりだ」
「広場へ閉じ込める」
カミラが言った。
「ああ」
ハインリッヒは中央広場へ視線を戻した。
「そのあとで、別の火を付ける」
白樺礼拝堂より多く運び込まれた油樽は、最初からすべてを燃やすために置かれたのではない。
まず西門を潰し、逃げ道を塞いで人々を中央広場へ閉じ込め、そのあとで別の火を入れる。
「まだ、別の火種がある」
俺が言うと、カミラは頷いた。
「見つける」
「一人では行くな」
「兵を借りる」
カミラはヘスラー大佐へ顔を向けた。
「大佐!」
声を通す。
「中央広場へ残る油樽と、黒松脂の搬入記録を確認しろ! 消火へ使っていない兵を、天幕と配給所へ回せ! 火は一つではない!」
ヘスラーは即座に副官へ命じた。
「二班に分けろ。救恤物資の箱を開けろ。空箱もだ。黒松脂、油、火縄、火打石を見つけたら、その場で声を上げろ。勝手に動かすな」
帝国兵が走り出す。
カミラも、そのあとへ続こうとした。
「待て」
俺は言った。
カミラが振り返る。
「手」
「問題ない」
「火傷している」
「浅い」
「肩も」
「動ける」
「また、それを言う?」
カミラは一瞬だけ黙り、俺を見る。
たぶん、少しだけ迷っている。
「一人で行くな」
俺は続けた。
「兵を連れていけ。無理に全部を自分で確かめるな」
言ってから、自分でも少しだけ驚いた。
いつも言われていることを、今度は俺がカミラへ言っている。
カミラの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「分かった」
低い声で答える。
「守る」
良い。
かなり。
ハインリッヒも近くにいた巡察隊の兵士二人へ顔を向ける。
「監察官へ付け。命令系統が不明な書記官や救恤調整室の人間を見つけても、勝手に斬るな。拘束を優先しろ」
「承知しました」
カミラは巡察隊の兵士二人を連れ、配給所の裏側へ向かった。
──第五十一部 了




