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第五十部 レオン・ヴァン・リュカリオンと名乗り、王子へ戻らない話 Another Side:ハインリッヒ・フォン・ホルマン


ハインリッヒ・フォン・ホルマンと、隣の寝台にいた王子の話


 レオン・ヴァン・リュカリオンが、自分の名前を広場へ響かせた瞬間、ハインリッヒ・フォン・ホルマンは、トルガウのグランデル帝国軍野戦病院を思い出していた。


 隣の寝台。


 包帯。


 薬草。


 窓の外へ積もった雪。


 記録板を抱えて病室を歩くエルゼ。


 傷を確かめるたびに眉を寄せるアーノルト軍医。


 歩けると言い張り、医者の目を盗んで寝台から降りようとし、そのたびに誰かへ止められていた外国人傭兵。


 ロド・カナリ。


 退院の時、補給路で使える帝国語の短文を書いた栞を渡した。


 深い理由があったわけではない。


 帝国領を旅するなら、読めた方が良い。


 それだけだった。


 だが、その男は栞を捨てなかった。


 白鷹門で再会した時、革袋の隙間から細長い紙の端が覗いていた。


 まだ持っていたのかと訊くと、使える紙だったからなと答えた。


 感傷的な言葉ではない。


 だから、余計に忘れにくい。


 その傭兵が今、七百人近い人々の前へ立ち、亡国の王子として名乗った。


 ただし、忠誠を求めなかった。


 帝国へ戦えとも。


 旗へ従えとも。


 自分を待てとも言わなかった。


 俺の名前で集まるな。


 俺の名前で死ぬな。


 帰る場所は、自分で決めろ。


 ハインリッヒは、広場にいる人々の顔を見る。


 泣いている老人。


 家族札を握る女。


 濃い青線の札を持つ男。


 槍を下げきれずにいる帝国兵。


 白い外套を脱いだミハイル・ヴァルゼン。


 そして、傷だらけの傭兵を支えるカミラ・パヴェル。


 亡国の王子は、王宮へ戻ろうとしているようには見えなかった。


 それでも、自分の名前から逃げることはやめたらしい。


「連絡士官殿」


 副官が、周囲へ聞こえない声で言った。


「本当に、本人なのですね」


「ああ」


「確証は」


「本人が名乗った」


「その前から、ご存じだったのでは」


「直接確認した」


「顔だけで?」


 ハインリッヒは、少しだけ息を吐いた。


「顔。声。傷だらけでも歩けると言い張る悪癖。医者と監察官の言うことを聞かない性格」


「最後の二つは、身元確認へ使えるのでしょうか」


「かなり強い」


 副官は、何とも言えない顔をした。


 ハインリッヒは腰へ下げた書類入れから、ヴァルター軍監の命令書を取り出す。


 偽帰還令事件の重要証人。


 身元確認対象。


 軍監直轄の保護拘束。


 指名手配が無効になったわけではない。


 懸賞も。


 金貨千枚。


 この場でレオンへ剣を向けた兵士を、単純に責めるだけでは足りない。


 人間は迷う。


 家族。


 借金。


 病気。


 土地。


 未来。


 金貨千枚があれば、変えられるものは多い。


 グランデル帝国兵であっても。


 善良な者であっても。


「本人だと認めれば」


 副官は言った。


「帝国軍として、拘束しなければなりません」


「ああ」


「逃がすおつもりは」


「ない」


 ハインリッヒは即座に答えた。


「病院で隣の寝台にいたというだけで見逃せば、俺は帝国軍人ではなくなる」


「では」


「ただし、誰にでも渡さない」


 命令書へ目を落とす。


「保安監督室にも、地方役所にも、賞金を受け取る権利があると言い出す兵士にも、正体を広めて群衆を煽る者にも」


 副官が少しだけ眉を寄せる。


「軍監直轄で?」


「ああ」


「拘束ですか。保護ですか」


「両方だ」


 ハインリッヒは答えた。


「本人は不満だろうが」


「でしょうね」


「荷車へ載せろ」


「かなり不満でしょうね」


「毛布も掛けろ」


 副官の口元が、わずかに動いた。


 ハインリッヒも、ほんの少しだけ笑いそうになる。


 だが、その時、西門の上で鐘が鳴った。


 短い。


 規則正しくない。


 火事の鐘でも、集会でも、警備交代でもない。


 ハインリッヒは、すぐに顔を上げた。


 石壁。


 黒い外套。


 火縄。


 油樽。


 荷車。


 木箱。


 麦袋。


 毛布。


 白鷹門。


 七百人。


 すべてが、一度に視界へ入る。


「伏せろ!」


 叫ぶ。


 西門の下で、炎が上がった。


 ハインリッヒは剣を抜く。


 今度は、止めるために。


 迷わず。



──Another Side 了


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