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第五十部 レオン・ヴァン・リュカリオンと名乗り、王子へ戻らない話 ② 偽の王子ミハイルと、拾わない外套


 白い外套をまとったミハイル・ヴァルゼンは、演壇の上でしばらく動かなかった。


 背後では白鷹旗が揺れている。


 父が穀倉記録係だった男。


 最初の冬に父を失い、その翌年には母も薬を受け取れないまま失った男。


 王子になりたかったわけではない。


 麦袋を動かしたかった。


 薬箱を動かしたかった。


 誰も助けなかったから。


 誰も戻らなかったから。


 使われていなかった俺の名前を拾った。


 正しいとは言えない。


 だが、簡単に否定もできない。


 ミハイルは白い外套の袖を握ったまま、ゆっくりと口を開いた。


「お前が、本物だとして」


 声は演説の時より低く、七百人へ聞かせるものではなく、俺へ届かせるものだった。


「十年前、どこにいた」


「グランデル帝国の強制労働施設」


「三年のあと」


「傭兵」


「戻ろうとは思わなかった?」


 俺は少しだけ息を吐く。


 簡単な答えはある。


 生きるだけで精一杯だった。


 王子へ戻る気はなかった。


 国を作る力もなかった。


 帰る場所を失った。


 全部、嘘ではない。


 だが、それだけではない。


「怖かった」


 言った。


 カミラが、ほんの少しだけ顔を向ける。


 ハインリッヒも。


 ミハイルも。


「戻れば、見なければならない。父が処刑されたこと。国がなくなったこと。散った人間がいること。俺が生きている間にも、冬を越せなかった人間がいること」


 声は、思っていたより落ち着いていた。


「俺は助けられた。リューリックが、一人で強制労働施設へ来た。馬鹿みたいに強くて、馬鹿みたいに無茶をして、俺を連れ出した。そのあと傭兵として生きた。怪我をして、運ばれて、治してもらって、また怪我をした。生き延びることへ慣れた。王子だった頃より、ずっと」


 カミラの口元が、ほんの少しだけ動く。


 たぶん、呆れている。


 だが、止めない。


 ハインリッヒは、何も言わない。


 トルガウの病室で、歩けると言い張り、エルゼとアーノルト軍医に止められていた傭兵が、どうしてあれほど生き延びることへ執着していたのか、少しだけ分かったのかもしれない。


「戻らなかった理由は、たくさんある」


 俺はミハイルを見る。


「それでも、戻らなかったことは変わらない」


 ミハイルは何も言わない。


「お前が拾ったのは、俺が置いてきた名前だ。麦を出させた。薬を動かした。家族名を集めた。それで助かった人間もいる」


 木椀を持つ子ども。


 薬包を握る老人。


 家族札を胸へ抱く女。


 広場にいる人々を見る。


「だから、全部が間違いだったとは言わない」


 ミハイルの目が、初めて大きく動いた。


 怒りではない。


 驚き。


 たぶん、それだけではない。


「だが」


 俺は言った。


「名前を使って人を燃やす奴へ、渡すな」


 白樺礼拝堂。


 黒松脂。


 鐘。


 煙。


 火。


 子ども。


 斬った男。


 全部。


「お前が拾った名前なら、お前が返せ」


 ミハイルは、しばらく俺を見ていた。


「返したあと、麦は出るのか」


「出させる」


「誰が」


「グランデル帝国軍」


 ヘスラー大佐を見る。


「たぶん」


 ヘスラーの眉が動く。


「勝手に決めるな」


「非常に困っている人がいる」


「分かっている」


「薬も」


「止めない」


「毛布も」


「配る」


「家族札は」


「本人へ返す。写しを取る場合も、目的と保管先を記録する」


「移送は」


「一度止める」


 ヘスラー大佐は低い声で答えた。


「家族単位へ照合し直す。行き先を明示する。拒否した者を拘束しない」


 広場が、また少し揺れる。


 帝国兵の何人かが互いを見る。


 書記官も。


 旧臣民も。


 ヘスラー大佐は、群衆の視線から逃げずに続けた。


「俺は、北方を守るために旧五国出身者を登録し、集め、管理する必要があると考えている。その判断を取り消すつもりはない」


 カミラの目が細くなる。


「ただし、白樺礼拝堂の火と、先ほど捕らえた男が持っていた指示書を見た。俺の仕組みへ、別の意図が寄生していることは認める」


 自分の正しさをすべて捨てるわけではない。


 だが、間違いも認める。


 簡単ではない。


 本当に。


「監査が終わるまで、西門は開けたままにする。濃い青線の札を持つ者の移送は停止。薄い青線の札を持つ者も、その場へ留めない。帰る者、残る者、別の場所へ行く者、それぞれの意思を記録し直す」


 ヘスラーは副官へ顔を向けた。


「配給所と診療天幕へ伝えろ。麦と薬を止めるな」


「承知しました」


 副官が走り出す。


 ミハイルは、その姿を見たあと、白い外套へ視線を落とした。


 自分の手で握っている袖。


 白鷹の刺繍。


 俺の名前。


 旗。


 役割。


 人。


 ゆっくりと、留め具へ指を掛ける。


 一つ外す。


 次も外す。


 肩から白い布が落ち、石畳へ広がった。


 白鷹旗の影へ落ちた外套を、ミハイルは踏まない。蹴らない。畳みもしない。


 ただ、演壇を降りる。


 一段。


 次の段。


 王子としてではなく、ミハイル・ヴァルゼンとして、人々の前へ立つ。


「俺は、ミハイル・ヴァルゼンだ」


 借りた名前ではなく、自分の名前を広場へ返す。


「旧リュカリオン北部の村で、穀倉記録係をしていた男の息子だ。父は最初の冬に死んだ。母も、その翌年に死んだ」


 誰も声を出さない。


「王子ではない」


 言う。


「旗を使った。名前も。麦を出させるために。薬を出させるために。家族札を集めるために」


 拳が震えている。


 それでも、言う。


「騙した」


 誰かが泣く。


 老人。


 女。


 あるいは、ミハイル自身。


 遠くからでは分からない。


「それでも、配給は止めないでくれ」


 ミハイルはヘスラーを見る。


「忠誠登録は止めろ。家族を分けるな。行き先を書け」


 ヘスラーは短く頷いた。


「ああ」


 ミハイルは、次に俺を見る。


「これでいいか」


 俺は少し考えた。


「全部は、まだ」


「何が」


「お前も働け」


 ミハイルの眉が動く。


「名簿を作った。家族札も書いた。薬箱が、どこで止まるかも知っている」


 俺は言った。


「王子ではなく、ミハイル・ヴァルゼンとしてやれ」


「信用されない」


「最初から、全部を信用してもらおうとするな」


「お前が言うのか」


「俺も、かなり信用がない」


 隣で、カミラが小さく息を吐いた。


「実績がある」


「正確だ」


 ミハイルは、ほんの少しだけ口元を動かした。


 笑ったのか。


 呆れたのか。


 分からない。


 それでも、白い外套は拾わなかった。



 ──第五十部 了


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