第五十部 レオン・ヴァン・リュカリオンと名乗り、王子へ戻らない話 ① 名乗りと、旗も同じだ
口を開く前に、一度だけ息を吸った。
白鷹門の中央広場には、煮崩れた麦粥の湯気、薬草、濡れた外套、馬の汗、火鉢へ使われた黒松脂の匂いが混ざり、春先の冷たい風へまとわりついていた。西門の巻き上げ機は途中で止まり、太い鎖が低く軋んでいる。二つの命令を受けた帝国兵は、槍を下げきれないまま互いの顔を見ていた。
七百人近い視線が、こちらへ集まっている。
老人。
女。
子ども。
濃い青線の札を渡された男たち。
白鷹旗の近くへ集められた旧村の代表。
救恤調整室の書記官。
荷役。
帝国兵。
コンラート・ヘスラー大佐。
白い外套をまとったミハイル・ヴァルゼン。
そして、俺の半歩前へ立つカミラ・パヴェル。
右手の手袋には、握り潰した火縄の焦げ跡が残っている。左肩も傷めている。それでもカミラは短剣を持ち、俺と周囲の兵士の間へ身体を入れていた。
俺の左側には、ハインリッヒ・フォン・ホルマンがいる。
トルガウのグランデル帝国軍野戦病院で、隣の寝台にいた帝国軍人。退院の時には、補給路で使える帝国語の短文を書いた栞を黙って寄越した男である。
病室では、俺を外国人傭兵ロド・カナリとして見ていた。
今は違う。
俺が、レオン・ヴァン・リュカリオンであると知っている。
グランデル帝国から金貨千枚を掛けられた亡国の王子。十年前に敗れ、捕らえられ、三年間を強制労働施設で過ごし、そのあとも王宮へ戻らず傭兵として生きてきた男。
ハインリッヒは、昔の縁だけで俺を見逃すことはできない。帝国軍人として、俺を拘束しなければならない。
ただし、誰にでも渡すつもりもないらしい。
「誰も動くな!」
ハインリッヒの声が、中央広場へ響いた。
軍監付連絡士官として、ヴァルター軍監の命令を通す声だった。
「その男は、偽帰還令事件の重要証人であり、ヴァルター軍監直轄の保護拘束対象だ。身元確認は軍監の監査下で行う。勝手に近づけば、軍令違反として拘束する!」
指名手配が消えたわけではない。
金貨千枚も。
広場の空気が、わずかに揺れた。
俺を見る視線には、驚き、疑い、怒り、期待、恐怖、そして欲が混ざっている。
普通の兵士が一生働いても、簡単には手へ入らない額だった。土地を買える。借金を返せる。病気の家族へ薬を買える。小さな村なら、立て直すことさえできるかもしれない。
俺の首一つで。
全員が悪人である必要はない。
むしろ、守りたい家族がいる者ほど、一瞬だけ迷うことがある。
善意へ期待するな。
ヴァルター軍監も、たぶんハインリッヒも、そう考えている。
正しい。
本当に。
「レオン」
カミラが低い声で呼んだ。
「何だ」
「立てるか」
「かなり厳しい」
「正直で良い」
「褒められた?」
「今だけだ」
カミラは短剣を下ろさず、右腕だけを俺の背中へ回した。傷めた左肩へ負担を掛けない角度で体を支えてくれる。
近い。
温かい。
外套越しにも柔らかさが分かる。
普段なら、どこまで体重を預ければ事故として処理できるか、慎重に検討するところだった。
だが今は、控える。
たぶん。
少しだけ、成長した。
「何を考えている」
カミラが訊いた。
「かなり真面目なことだ」
「顔が最低だ」
「人の内心を証拠もなく断定するな」
「実績がある」
正確だった。
少しだけ息を吐く。
腹へ巻かれた布の下で、傷が熱を持っている。縫い直した左上腕も、立っているだけで痛い。白樺礼拝堂で鐘楼が崩れた時に背中へ受けた衝撃も、呼吸をするたびに残っている。
それでも、今だけは立つ。
俺の名前が、俺より先にここまで来た。
なら、使う。
「レオン・ヴァン・リュカリオンだ」
声を出した。
思っていたより、よく通った。
中央広場を満たしていたざわめきが、少しずつ小さくなる。
「十年前に負けた。グランデル帝国の捕虜になった。三年間、強制労働施設で働かされた。そのあと助けられて、今は傭兵をしている」
王子らしい演説ではない。
父なら、もっと整った言葉を使った。
昔の俺も、もう少し格好を付けたかもしれない。
だが今は、煤だらけで、額にはこぶがあり、左腕と腹には包帯が巻かれ、カミラへ支えられなければ立っていることさえ難しい。
この姿で立派な王子を演じても、仕方がない。
「俺の首には、グランデル帝国から金貨千枚が掛けられている」
広場の一部が、また揺れた。
人々は、もう一度俺を見る。
顔。
首。
値段。
それでも続ける。
「今から俺へ近づけば、たぶん帝国兵に止められる。運が悪ければ、カミラにも止められる」
背中へ回された腕に、少しだけ力が入った。
「余計なことを言うな」
小さい声だった。
俺にしか聞こえない。
「重要だ」
「何が」
「非常に強い」
「前を見ろ」
正確だった。
群衆の中から、かすかな笑いが漏れる。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
全部を立派な言葉へする必要はない。
「俺が本物かどうか、今すぐ全員に信じろとは言わない。顔を知っている者は少ない。十年経った。俺も変わった。たぶん、かなり」
演壇の近くに立っていた老人が、震える声で言った。
「殿下」
最初に俺の顔へ気づいた男だった。
白髪。
痩せた頬。
左脚を引きずり、二重線の札を持っている。
「私は覚えております。冬の式典で、陛下の隣へ立っておられた。まだ、お若かった頃に」
老人は、悪い膝で跪こうとした。
「やめてくれ」
俺は言った。
老人の動きが止まる。
「膝が痛いだろ」
「しかし」
「立っている方がつらいなら、座っていい。だが、俺へ跪く必要はない」
老人はすぐには動かなかった。
目へ涙が溜まっている。
俺が戻ることを待っていたのかもしれない。
俺が知らない場所で。
俺が何もしていなかった、十年近い時間の中で。
「俺は、王へ戻るために来たんじゃない」
言葉を置くと、老人の顔が揺れた。
広場の空気も変わる。
白鷹旗が風を受け、乾いた布の音を立てた。
「国を取り戻すと言うためでもない。帝国と戦えと言うつもりもない。俺の名前で、忠誠を集める気もない」
濃い青線の札を持つ男たちも、子どもを抱いた女も、家族札を胸へ押し当てる老人も、帝国兵も、書記官も、ミハイルも、ヘスラー大佐も、ハインリッヒも、全員がこちらを見る。
「俺の名前で集まるな」
広場へ届くように、はっきりと言った。
「俺の名前で死ぬな」
鐘は鳴っていない。
兵士の声も、子どもの泣き声も、今は少し遠く感じる。
「麦は受け取れ。薬も使え。毛布も、寝床も借りろ。家族を探すために必要なら、名簿も使え。だが、助けてもらった代わりに忠誠を渡すな。行き先を書かない荷車へ乗るな。家族を分ける札へ、何も考えずに従うな。王家の名で書かれていても、帝国の印が押されていても、疑っていい」
カミラの腕が、俺の背中へ回ったまま少しだけ強くなる。
たぶん、支えるため。
それだけ。
たぶん。
「帰る場所は、自分で決めろ」
静かだった。
「旧リュカリオンへ戻りたいなら、戻ればいい。帝国領へ残りたいなら、残ればいい。別の町へ行きたいなら、それでもいい。俺を待つ必要もない。旗へ従う必要もない」
胸の奥へ、腹の傷とは違う痛みが落ちる。
雪。
父。
白鷹門。
まだ幼かったレイラ。
王宮。
兵士。
国。
俺が戻らなかった時間。
俺が置いてきたもの。
全部。
「王子へ戻ってくれ」
広場の後方から、男の声が上がった。
すぐに別の声も続く。
「殿下が必要です」
「旗がなければ、誰も助けてくれない」
「帝国は、また俺たちを使う」
「帰る場所を決めろと言われても、帰れる家がない」
「村は焼かれた」
「家族もいない」
声が増える。
責めているわけではない。
怒りだけでもない。
本当に困っている。
帰る場所を自分で決めろと言われても、選べる道そのものがない者がいる。
ミハイルが言ったとおりだった。
剣を持ち、歩ける者だけが、自由を簡単に口へできる。
俺はすぐには答えなかった。
逃げない。
考える。
広場を見る。
人を見る。
「分かっている」
言った。
「選べと言われても、選べない人間がいる。戻る家がない。金もない。薬もない。家族も見つからない。だから、助ける仕組みは要る」
声を整える。
「麦も、薬も、寝床も、仕事も必要だ。名簿も、家族札も使えばいい。グランデル帝国軍が出すなら、受け取ればいい。旧王家の記録が役に立つなら、それも使えばいい」
ヘスラー大佐を見る。
「ただし、誰かを助けるために作った仕組みを、誰かを縛るために使うな」
次に、ミハイルを見る。
「旗も同じだ」
──第五十部 了




