第四十九部 命令が二つになり、金貨千枚の首へ視線が集まる話 ② 偽の王子ミハイルと、老人の声
演壇の近くでは、白い外套をまとったミハイル・ヴァルゼンが、群衆へ向かって両手を上げていた。
「走るな!」
声が、中央広場へ通る。
「西門は、まだ閉じていない。家族と離れるな。子どもを抱け。老人へ道を譲れ!」
王子として帰還を告げた時とは、声の使い方が違う。
華やかではない。
人々を酔わせるための言葉でもない。
避難民区で何度も列を作り、麦袋の数を確かめ、薬箱が足りない場所で人を待たせてきた者の声だった。
「薄い青線の札を持っている者も、その場で待て! 濃い青線の札を持つ者だけを先に移すな! 家族を分けるな!」
ヘスラー大佐が、演壇の近くで顔を向ける。
「殿下」
「その呼び方をやめろ」
ミハイルは答えた。
「役割は引き受けた。だが、家族を分けてよいとは言っていない」
「安全確保のためだ」
「行き先を書け」
「今はできない」
「なら、動かすな」
群衆の近くで、ミハイルはヘスラーへ言った。
声は震えていない。
ただし、白い外套の袖を握る手には、わずかに力が入っている。
七百人近い視線を集めたまま、偽の王子が、自分で作った舞台から降りようとしている。
「逃げなかった」
俺は小さく言った。
カミラが顔を向ける。
「何が」
「ミハイル」
「ああ」
「旗を捨てれば、自分だけは逃げられた」
「逃げない理由がある」
「自分の声で呼んだから?」
「たぶん」
カミラは、演壇を見ながら答えた。
「借りた名前でも、自分の口で人を呼んだ。置いていけないんだろう」
俺は黙る。
俺は十年近く、戻らなかった。
ミハイルは、俺が置いてきた名前を拾った。
間違った方法で。
危険な形で。
それでも、逃げなかった。
簡単に憎めない。
本当に。
少し離れた場所で、ハインリッヒも演壇を見ていた。
「お前の名前は、ずいぶん多くの人間を動かしたらしい」
「俺より働いている」
「笑うところではない」
「ああ」
今度は、真面目に答えた。
◇
演壇の西側で、老人の声が上がった。
「門が閉まるぞ!」
別の場所からも声が続く。
「帝国軍が、また俺たちを閉じ込める!」
群衆の中へ波が走った。
座っていた老人が立ち上がり、女が子どもを抱く。濃い青線の札を持った男たちも西門へ視線を向け、兵士の一人が槍を横へ構えながら、人の流れを止めようと声を張った。
「下がれ! 西門へ近づくな!」
声が強すぎた。
数人が足を止め、その後ろから押される。誰かが転び、麦粥の椀が石畳へ落ち、子どもの泣き声が上がる。
「走るな!」
ミハイルが叫ぶ。
「家族と離れるな!」
だが、声が重なる。
「閉じ込められる!」
「男だけ連れていく気だ!」
「白樺礼拝堂でも火が出た!」
「逃げろ!」
最後の一言だけが、少し整いすぎていた。
逃げろ。
群衆へ向けて、今、一番危険な言葉を落とす。
「カミラ」
「ああ」
同時に気づいたらしい。
人々の間を、一人の書記官が動いている。
救恤調整室の腕章。
紙束。
革袋。
目立たない服。
人の流れへ逆らわずに歩きながら、少し離れた場所でも同じ言葉を落としていた。
帝国軍が門を閉める。
男だけ連れていかれる。
礼拝堂と同じだ。
今のうちに走れ。
一つずつ。
火種を置く。
人々の足元へ、黒松脂を流すように。
「あいつ」
俺が言うと、カミラも頷いた。
「円の中の目」
「止める」
カミラは、俺の背中へ回していた腕を離そうとした。
「待て」
今度は、ハインリッヒが言った。
カミラが顔を向ける。
「一人で行くな。肩を痛めている」
「見失う」
「兵を付ける」
ハインリッヒは、近くにいた巡察隊の兵士二人へ合図を送る。
「監察官を支援しろ。群衆へ刃を向けるな。拘束を優先する」
「承知しました」
カミラは一瞬だけ俺を見た。
「立てるか」
「少しなら」
「少しだけ、だ」
「ああ」
カミラの右腕が離れる。
支えを失い、体がわずかに傾いた。
ハインリッヒが反対側から肩へ手を添える。
「倒れるな」
「帝国軍人が優しい」
「重要証人を落とすと、報告書が増える」
「非常に現実的だな」
「病院でも、似たような理由で起こされた」
「エルゼは、もう少し優しかった」
「病棟記録係と比べるな」
厳しい。
本当に。
カミラは、巡察隊の兵士二人を伴い、人々の間へ入っていった。
走らない。
左肩を傷めている。
それでも、目標から視線を外さず、腕章を付けた書記官が演壇の裏へ回ろうとすると、少し先へ入って進路を塞いだ。
「待て」
低い声で呼ぶ。
書記官は振り返らない。
そのまま歩く。
「救恤調整室の所属と氏名を言え」
カミラの声が少しだけ強くなり、周囲の人々も顔を向けた。
男の足が止まる。
ゆっくり振り返る。
「何の権限で」
「監察官として」
「イタリカの?」
男は小さく笑った。
ただし、周囲へ聞かせる笑いだった。
「共産国の監察官が、グランデル帝国領内で何をしている」
人々の視線が集まる。
カミラは動かない。
「名前を言え」
「お前こそ」
「カミラ・パヴェル」
即座に答える。
「名前も立場も隠していない。次は、あんたの番だ」
男の目が細くなる。
「ずいぶん堂々としている」
「紙を持つ人間は、堂々としていろ」
カミラは言った。
「誰が書き、誰が運び、誰へ渡したか。全部、あとで残る」
男は革袋へ手を入れた。
紙ではない。
短剣。
刃が見える。
周囲で悲鳴が上がった。
カミラは半歩だけ引き、右手で自分の短剣を抜いた。左肩を使えないため、正面から刃を受けず、首を狙って踏み込んできた男の腕を外側へ流しながら、手首へ柄を打ち込む。
金属が鳴った。
短剣が石畳へ落ちる。
男は、すぐに拾おうとする。
だが、カミラの踵が指のすぐ近くへ落ち、踏み潰さずに逃げ道だけを塞いだ。
「動くな」
低い声。
男は一瞬だけ止まった。
だが、左手を外套の内側へ入れる。
「カミラ!」
俺が叫ぶ。
男が引き出したのは、火打石と小さな油壺だった。
群衆。
天幕。
麦袋。
火。
白樺礼拝堂と同じ。
カミラは迷わず右足で男の手首を蹴り、油壺を石畳へ落とした。乾いた音とともに器が割れ、油の匂いが広がり、火打石も遠くへ転がる。
だが、男はもう一つ持っていた。
細い火縄。
すでに火が付いている。
落とせば、油へ届く。
カミラは飛び込み、左肩を庇う余裕もないまま、右手で火縄を掴んだ。
手袋へ焦げ跡が広がり、細い煙が上がる。
それでも、離さない。
火縄を握り潰す。
男はカミラの胸元へ体当たりした。
傷めている左肩へ衝撃が入り、カミラの顔が歪み、膝もわずかに揺れる。
それでも倒れない。
右手で男の襟元を掴み、崩れた体勢を利用しながら石畳へ叩きつけた。
鈍い音が響く。
男が息を漏らす。
巡察隊の兵士二人が駆け寄り、腕を捻り上げ、背中へ膝を載せた。
「拘束しろ!」
カミラが叫ぶ。
「革袋も確保しろ。紙を燃やすな!」
兵士が男の革袋を奪い、中身を石畳へ広げる。
青い細線の札。
油壺。
火縄。
小さな印章。
円。
その中に、目。
近くにいた人々が見る。
何が起きたのかを、自分の目で見る。
カミラは傷めた肩を押さえながらも顔を上げ、広場へ声を通した。
「走るな! 火を付けようとした男は捕らえた! 西門は、まだ閉じていない! 家族と離れるな! その場で待て!」
低く、強い声だった。
命令へ慣れている。
人々の動きが、少しずつ止まる。
完全ではない。
それでも、走らない。
まずは、それでいい。
──第四十九部 了




